2013/08/31

1970年

藤圭子がブレイクした1970年とはどんな年だったのか?自分の体験しかわからないですが、まずこの大阪万博があった。当時茨木に住んでいたからJR茨木駅には快速が停まるようになり、もう人また人で大いに賑わった。ぼくは晴れて大学生になり内心やや不満ながらも表面上は第一志望校に受かった感じで春が来た。母方が田舎なものでその田舎からの万博訪問客の第1号は3月に来て(9月の終わりまでいったい何人のお客が泊りに来ただろうか?もう旅館みたいだった)、さっそく案内人として万博に行った。何回行ったか覚えていない。4月には、高校の悪友も全員晴れて大学生になり、現役で1年先に大学生になっていた友達が東京の方の大学に行き、旅行社の添乗員のバイトをしてどういうわけか万博に来た。それも4月。さっそくアホの連中がバイト姿を冷やかしに出かけた。もうこの時は僕は数回行っていたと思う。
添乗員なので背広を着ていた。こっちは無精ひげに長髪で異様な記念写真が残っている。
音楽はビートルズのアビーロード、ストーンズのレット・イット・ブリード、レッド・ツエッペリンの2枚目を毎日毎日繰り返し聞いていた。グランド・ファンクが出てくるのもこのころである。
世の中は明るい方向に向かっていると思った。
そうそう、万博のカナダ館は現地からロックバンドを連れてきて生演奏をしていて、当時ライブでロックを聞くなんてそうなかったから楽しかった。スキップ・プロコップ率いるライトハウスも来たという話ですが覚えていない。バンドの名前なんか忘れてしまってますが、この時に聞いた「イーライズ・カミン」はもうすごく恰好よかった。(のちにスリードッグナイトでヒット)
こんな感じの中に藤圭子の歌が忍び寄ってくる不思議ですわ。
8月のころにはエジソン・ライトハウスのラブ・グロウズもヒット。これもよく覚えている。この歌に関してはいくらでも書くことがあるのですがまた後日。

2013/08/30

藤圭子 8

急に東京に行く用事が出来たから上の場所に行って拝んで来ようと思っている。場所は仕事で近所によく行っていたから大体勘所はある。
いろいろ週刊誌に書かれてあと2~3週間もすれば収束していくのだろう。
ネットに載ってきたものは読めるので適当に見ていたら、1970年の1年間が驚異的な人気沸騰で1971年になると急速にしぼんでいったと書かれてあることが多い。
その通りで、すでに書いたけれど、僕も1971年の3月くらいに出た「さいはての女」のLPを買って卒業したような感じであります。その後もテレビに出ていたら元気で活躍しているなあ・・くらいな感じで見ていた。まあ変な話、あれだけヒット曲があればそこそこ食えていけるだろうめでたしめでたしの感じだった(ほとんどの演歌歌手が自分の往年の大ヒットで食っているわけで、まあそういう生活をするのだろうと思っていた)
シングル盤「さいはての女」の前にもう1枚シングル盤が出ていて、それが普通の演歌歌手になったなあと思った記憶がある。それまでの4枚はすべて自分自身の歌のように思えた(1枚目は違ったと思うけれど)2枚目から3枚目、3枚目から4枚目とどんどん藤圭子が自分のことを歌っているような錯覚に陥っていた気がする(今から思えば)
青江三奈が伊勢佐木町ブルースを歌ってもご当地ソングねという感じで歌手がいろんな盛り場の歌を歌って当たればいいねという感じで聞いてしまいますが、藤圭子に抱いた感覚は全く違っていた。
1970年だけ「圭子ちゃん幸せになれてよかったね」とエールを贈っていたのかな???もう43年前の気持ちですからね・・・よくわからない。
ただですね、「自殺なんて個人の自己責任だ」ということで片付ければ簡単ですが、あの1年間の熱気が彼女に与えたものがなにか今回の結末に尾を引いてしまったと思えてならない。
だからなんか最近気がしんどいのですわ。
僕が気にしてもどうなるもんでもないのですけどね。
レコード(CD)が売れて増刷?だそうです。
確かに何をきいても魅力的です。
最近は「川は流れる」ばかり聞いてます。しかし当時(昭和35年くらいか)働きに東京に出てきた人はこういう感情を持っていたのかな・・・と別のことを考えたりね。







2013/08/28

藤圭子 7

一応終わりにしたつもりでしたが、もうちょっと書き足りなくて。
亡くなってから色々な記事が出てきて、娘さんが超大物歌手なだけに僕が思っていたのとちょっと違った反響があってとまどった。
毀誉褒貶ちりばめられてますが、なんでこんな記事を今更書くのかなと思うような超3流マスコミから芸能界の歴史としては燦然たる足跡を残した部分を正しく評価しているなと思えるまともな新聞社とか、今回藤圭子さんの死でマスコミのスタンスを再認識したという変な体験のおまけまでついた。
僕が思うのは歌がうまい娘さんが流されるがままに北海道で歌っていたら中央のプロダクションの目に留まり一挙にスターダムに上がり、しかも自分で制御できないくらいのモンスターになってしまって、ブームが去ればその残像との戦いだったのかなと思う。そしてひと段落ついたら、娘が母親以上のモンスターになってしまってまた戦いが始まってしまった。こうして書いているうちに浦沢直樹のモンスターを思い出してしまった。
いろいろネット上に各人の思い出が書き込まれてます。なかでも北海道の岩見沢のきらく園という温泉で中学生のころ歌っていたという場所は、今は全く取り壊されて荒野になってました。昔は地方をほんまのプロが来て(「〇〇〇来たる!!」という看板ですね)、その前座として地元のセミプロさんの仕事もかなりあったのではないかと推察します。
岩見沢というところも昔炭鉱で栄えた町で今は何とかターミナル都市として存在感を維持しているような感じです。周囲の美唄、砂川、夕張という町は兵どもが夢のあと的な町になってます。栄えた当時は炭鉱夫さん相手のミニ宴会も多く、藤圭子さんの両親も仕事があったのだろうと思う。
歌は世につれ・・・というナレーションがありますが、彼女の人生も大きな時代のうねりに翻弄されたのかなと思ってます。
この写真気に入ってます。

2013/08/27

藤圭子 6

これが4枚目「さいはての女」です。これもなかなかいいんですよ。1971年の年初だったかな。北海道出身の雰囲気に合って、裏のジャケットの写真も気に入ってました。ただね、このあたりから熱に浮かされていたような気持ちがぼちぼちと平静化されていく(僕個人としてもね、ぼちぼち本業?に戻ろうか…ピンクフロイドの次のがいいみたい・・というような感じになって行った)
ユーチューブに追悼版でいろいろと過去のテレビのシーンがアップされてます。まあよくこんなものを録画されてましたねというものもある。そういう意味で僕はいい加減なファンだったということですわ。
今日は1998年の11月5日に放映された「懐かしい歌とトーク」のいう番組を見ました。このなかの藤圭子はおしゃべりで(喋りすぎの感もあります)リズムに乗って体を揺らすし、僕の持っているイメージとは違う別人の藤圭子がおります。昔から素の姿はロック好きのお喋りの女の子だという噂が本当だったみたいです。この中で興味深い話がいっぱいあって、子供が帝王切開で生まれた話や初期の歌は真っ暗にして録音した話とか僕には新鮮なものばかりでした。
ただじゃあ本当に普通の女の子だったのかと言えばなかなかそうでなかったかもなあという気持ちも残っていまして、村上春樹の「村上朝日堂」の「僕の出会った有名人」から抜粋させていただくと・・・「ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、この時僕は持った」 と書かれてまして・・このあたり(有名であることになじめない)がいろいろ書かれてる奇行とかにもつながったのじゃないかなと思う。
僕も結構奇行癖っぽいものがあるけれどそれは何とか世の中と調和させるための人間の持っている自動調整機能の一部だと思えば別にどういうことはないと思ってます。(自己弁護かな)。生きようとする証でもあります。
なんか藤圭子さんの死で6回も綴ってしまいましたが、一応今回で終わろうと思います。
やっぱりかなり悲しい思いが強いですね。八代亜紀とデュエットしている姿なんて実にきれい。あらためまして冥福を祈りたいと思います。お疲れ様でした。



2013/08/26

藤圭子 5

記念すべき1枚目のLPレコード、シングル盤より意外とこれが売れた。僕が購入するのはずいぶん経ってからのことである。
このレコードの特徴は他人の演歌を藤圭子が歌って、結果的にオリジナルを凌駕していた点だと思う。当時からオリジナルを歌っていた歌手が拗ねているという冗談とも本気ともとれる噂話を聞いた。18の小娘の方の歌のほうが迫力があってはまあ顔面蒼白の事態ですわな。でも聞き手にとってはそんなことどうでもよくって「いいものはいい」から藤圭子の方を買ってしまう・・ということで結果的に演歌界には居づらかったという話もきいたような(すべて喫茶店の週刊誌で読んだ記憶です)。
考えてみたら他人の歌を発掘して大ヒットさせるというのは(僕の得意のジャンルでいえば)ロッド・スチュアートなんかがそうだったと思うけど、藤圭子のは埋もれた作品でなくそこそこヒットした曲をそのまま歌うのやからまあなかなか難しいところがあったのかなと(今更どうでもいい話ですが)
訃報から4日ほど経つがなんか気持ちがすっきりしない毎日が続いている。彼女らしい終わり方だったなと納得する時もあったり、いやいやもっと普通の人生を送るように周りの人たちが工夫してやったらよかったのではと思ったり。
もちろん本人の真の姿などこちらは全く見当もつかないけれど、細切れながら目にする情報から考えたら、社会通念の考え方と随分とずれてしまってるなあと思うことが多い。よく巷で言われる遊ぶのも芸のうちだとか、芸能人の破天荒な生活とはちょっと違っていると思えてならない。
僕は普通は紅白歌合戦は見ないけれど、1971年の紅白歌合戦の藤圭子が出たシーンは家族が大声で呼んだからテレビの部屋まで見に行った。当時の婚約者だった(と思う)前川清が急病のため出られず。藤圭子が前川清の「港の別れ唄」を代理で歌ったときは何を歌っても上手いなあと思った。いまでもこの時のシーンがふとよみがえる時がある。クールファイブとのコラボのレコードも売れました。ですから1970年のLPチャートはほとんど藤圭子です。52週のうち〇%だろうか?
なんか作られたままごとのカップルみたいでしたが意外と似合っているかもなあと当時は祝福したものである。

2013/08/25

藤圭子 4

これが2枚目のLPレコードです。もうそのまんまでしょう。何の工夫もない。これがばっさばっさ売れた。僕はこれを買うのは「いささか」いや「かなり」ためらいがあったですね。その頃買いたいなと思っていたのが、テン・イヤーズ・アフターのクリックルウッド・グリーンとか、CSN&Yの2枚目とかもちろんウッドストックのライブの3枚組とかね。この1枚だけは毛色が違ってますからね。棚に並べても浮きますわなあ。
何べんも買おうか買うまいかと悩んだ1枚です。こんなん大きな音でかけられへんしなあ・・・と思ったり。
レコード屋でぎこちなく「よろしくお願いします」と頭を下げられた(そこにいた人みんなに頭を下げていたわけですが)義理もあるからやっぱり買おうかなと。まあ自称ロック少年としてはなかなか人に言えない葛藤があったわけです。
ピンク・フロイド聞いてレッド・ツエッペリンを大音量で聞いてその間に「女のブルース」をこそっと聞いてですからね。まあなかなかややこしい文化的な生活を営んでいたことになります。
今にして思えば、普通、芸能人ならというか20歳前後のアイドル路線の子なら当然だと思われる姿があんまり見受けられなかったような記憶があります。大体ロック系の雑誌を読んでいたわけで巷の「明星」とか「平凡」を読まないからあんあり当時の日本の芸能界のことを知らないのですが、なんというかあんまりスカート姿を見た記憶がない。ましてや夏になると恒例の水着姿も一回も見た記憶がない。演歌歌手って普通着物で歌うと思っていたけれど着物姿もそれほど見た記憶がない。お正月なんかに着物姿のポスターとか作りますけど藤圭子の着物姿ってなんとなくぎこちなくってこれってちょっと違うかなと思ったりしたことがある・・・ということでかなり孤高路線だったような気がそのころからしてました。
これがプロダクションとレコード会社の作戦だったとも思えないですしね。
ご本人の性格もかなり反映されているのではとこっちは思ってましたが。
そのあたりも気に入った部分ではあったわけです。
長じて演歌界の大御所的な存在になるような姿は当時からも窺えなかった。そういう意味では今回の結末は既定路線的な結末なのかなとも思えます。
あの時に感じた儚さを43年たった今もう一度感じるとは夢にも思わなかった。
それと今でも覚えているのは、幼いころ貧乏だったのでトマトばかり食べていたという記事が今でも脳裏に残ってます。



2013/08/24

藤圭子 3

本人の意向で葬儀も行われないみたいでそれも藤圭子という人物にあっているような気もする。寂しく死んでいく運命だったのかもしれない。
当時爆発的な人気が出たとき色んな方々が分析したけれど、今から考えたら本当になんであれだけ当たったのだろう。1969年と言えば「夜明けのスキャット」や「ブルーライトヨコハマ」などが流行り、演歌も今みたいに下火ではなかったけれど若い人が飛びつく音楽でもなかったように思う。僕も全く聞かなかったしね。
まあ前々回書いたようにレコード屋で本人を見たから気にしていただけでヒットするなんて夢にも思わなかった。別に昔からある普通の演歌のように思えたから。2作目の「女のブルース」が1970年の初めに出た時も、何とか1作目がそこそこ売れたから次も出してもらえたんだ(よかったよかった)と思っていた。そしたらこれが当たった。LPレコードも売れた。赤いジャケットで本当に昔からの普通のジャケットで、ロックの方はもういろいろ素晴らしいジャケットが百花繚乱の時代に「なんでっかこのジャケットは??」と突っ込みたくなるほど普通すぎるジャケットで正直購買意欲が半減するものだった(僕にはね)。それでも売れました。周りにも買った奴が結構いて、なんか今までの演歌歌手とは違う雰囲気になっていた。それが万博真っ只中の1970年の夏ごろですね。
そしたら次に園まりの「夢は夜ひらく」のリメイク版が出てきてなんか苦し紛れの作戦に出てきたなあと思っていたら、またそれが当たった。もうこうなると手が付けられない感じになってきて、この年のLPレコードのチャートはほとんど藤圭子が1位だった様な気がしている。
いまの何人いるかわからん集団で歌うのではなくってほんまに小さい痩せた女の子が歌う何とも言えない寂しい歌が毎週トップ10に入っていた。
今から考えたら不思議な時代だった。世の中は決して暗くなく万博で関西は活況を呈していたしそれほど暗い時代でもなかった。ただなんか浪曲師の娘で中学を出て貧乏で高校にも行けず親について自分も歌っていたという実に「浪花節」的な話(もうそんな話はドラマの中にしかないと思っていた)の「ほんまもの」が歌うレパートリーに完全に参ってしまった。自己主張するフォークソングに比べて全く自己主張なしの他人の歌ばかり借り物の歌を切々と市松人形のような美少女が顔に似合わないどすの効いた声で歌う姿の実にややこしいアンビバレンツな世界にはまってしまった。それがアップしてる「歌いつがれて25年藤圭子演歌を歌う」だった。このレコードが彼女のレコード・CDの中では最高の出来だと確信しているけれどなぜか今は手に入らない。
レコード会社の方、追悼盤で出してください。ボーナストラック付きで。

2013/08/23

藤圭子 2

少年マガジンの藤圭子の表紙は2冊だったと思う。実家に戻って取ってくるよりネットで探したほうが早いかなと思って探すがなかなか見当たらずようやく発見。1970年の43号です。もうこのころは少年向けでなく大学生向けだったですね。
自殺から1日たってその反響の大きさに驚いている。まあ宇多田ヒカルの母親という面が大きいのだと思いけれど。いつも思うけど三流芸能誌の記事って下らない。ただこの水準が一般大衆の求めるレベルってことですから。日本人ってそんなにレベルが高くないのかなと時々思うことがある。
でもこの人の人生って実に波乱万丈で得体のしれないうねりに翻弄され続けたように思う。死ぬまで自分のいる場所を見つけることができなかったように思えてならない。
昨日、レコードでいえば4枚目まで買って、それ以降のことは知らないと書いたけれど、それ以降実に大量のレコード(CD)が出ております。歌手ですから、しかも演歌歌手ですから歌える歌は山ほどある。様々な企画で出てます。1970年のファンはその後も買い続けたのだろうか?
この大量のレコードのリストを見るにつけレコード会社の商魂が見え隠れして歌手って消耗品だなとつくづく思った。
その一部がユーチューブで聞け(見れる?)ます。
「川は流れる」なんて本当にいいです。やっぱり雰囲気が他の歌手と違います。実に上手い。何を歌ってもうまいですね。ずっと歌い続けた方がよかったような気がしますね。日本中の健康ランドをベンチャーズみたいに回り続けた方が本人にもよかったような気がします。
本当に改めて冥福を祈りたいと思う。お疲れ様でした。いくらお金があってもまた有名でも生きるっていうこは結構疲れるし、つらいことも多い(だろうと思う)。

2013/08/22

藤圭子

あの藤圭子さんが亡くなった。僕が気に入った人物は自殺が多い。困ったもんである。自分で落とし前をつける気持ちが強いのだろうか?
以前にも書いたことがあるが、1969年の秋に大阪の吹田の井村楽器というレコード屋に「新宿の女」のプロモーションに来ていたのを見たことがある。そのときこちらは浪人生です。こっちは自他ともに認めるロックマニア・・「これからはロックだ」と広言していた時期で演歌なんかくそくらえと思っていた時期である。正直演歌なんか馬鹿にしてましたね。ただご本人は実におとなしくレコードを買ってくれなんか全く言わない。レコード会社のセールスマンが大声で何か言っている。本人はちょこんと座っているだけ。実に変な魅力がありました。ここでシングル盤を買って帰ればサイン入りで後世に残る家宝になったのですがなんせ浪人の身でお金もなくただ見ていただけ。可愛いとも綺麗とも思わなかった。ただ不思議な魅力を感じたことは確かである。
ヒットするなんて思ってもいなかった「新宿の女」が驚いたことにヒットして、次の「女のブルース」になると超大ヒット、あの時の女の子が毎日テレビに出てるということになった。ただなんかテレビに出てくるご本人はなんとなく周囲とズレてまして、ほんとに本人はアイドルになりたかったのだろうか??
1970年の暮れに「歌い継がれて25年 藤圭子演歌を歌う」という2枚組のレコードが出る。大いに悩んだ末正月に購入に踏ん切り買いました。これはほんまによく聞きました(まだCDが出ないのがけしからんと思う)。ローリング・ストーンズのレット・イット・ブリードと交互に聞いていた。僕の壮大なるコレクションの唯一の演歌歌手であります。
戦後から25年の演歌の歴史を一人で歌い継ぐという企画もので僕の親父が鼻歌で歌っていた「リンゴの歌」が実にいい味を出している。「銀座カンカン娘」もいいです。
病が高じてフエスティバル・ホールにコンサートまで見に行った。ロック以外のコンサートは後にも先にもこれのみ。それほど藤圭子は特別だった。「さいはての女」のLPまで買った。それ以降はなぜ買う気がしなくなったのかは今もってわからない。普通の演歌歌手に戻してあげようと思ったのかどうかも分からない・・・正直藤圭子という人物のあるべき姿とは何だったのか?本人にとって何が幸せだったのかは全く分からない。僕らがよってたかって時代の寵児に祭り上げてしまって迷惑をかけたような気がずっとしている。
時も過ぎて忘れたころに(偶然に藤圭子とそっくりな声の歌手がいると思った)宇多田ヒカルでまた思い出してしまって、これも本人にとってどうだったのだろう・・・誰もわからないですよね。
ご冥福を祈るのみです。
デビューしたころの藤圭子については村上春樹のエッセイにも同じような感想が書かれていて、ああ一緒の感じだと思った記憶があります。
藤圭子と言えばこの少年マガジンの表紙です。少年マガジンの実物が僕の実家に置いてあります。蛇足ながら1970年の少年マガジンの表紙はいいものが多い。
ぼちぼち僕らの時代も過ぎ去りつつあります。改めまして 合掌。 

88 Rock Day

「88ロックデイ」というイベント(アマチュアバンドのコンテスト)が何時からあったのかは忘れたけれど1976年には万博の跡地で開催された記憶が残っている(自分で行ったから)。当時の跡地は太陽の塔は当然ながら残っていたけれど、アップした写真の屋根の部分が全部ではないけれど部分的にまだ残っていたような気がする。それにエスカレータが見えていますが多分エスカレータが取り外されて階段になっていたような???もう定かではありませんがまだまだ万博会場の雰囲気は残っていたような気がする。
確か「フアッツ・ボトル・ブルースバンド」というバンドが1位だったような記憶がありますが…これもまた昔の話で???
万博ホールでやっていたこともあったような・・・これもまた昔の思い出です。
ただアマチュアバンドなんで記憶への残り方が少ないですね。
でも「三途の川」というロリー・ギャラガーばりのギタリストがいたバンドも出てきた???よね。
大半は万博公園だったと思う。
関西のアマチュアではあるが実力者が出ていて今ではそこそこ有名な方も多い。1974年の88ロックデイのレコードに「だるま食堂」というバンドが収録されているがその後の音信は僕らではわからない。倉田潤(だったかな)というリードギタリストがいてなかなか様になる御仁でした。
あとよく思い出すのは88には出ていないかもしれないけれど「ブラインド・エクスプレス」というややハードロック系のバンドね。シンドバッドといえばサザンでなくて僕らはブラインドだった。(なんのことかわかりませんね)

2013/08/21

ファラオの呪い

エジプトが大変である。もう最近は国際情勢も他人事のように思えてあんまり関心事でなくなってきてますが(老いとはこういうものかと思う)、今日のニュースでは国立博物館の陳列品がほとんど略奪されたということで、本来は主義主張の争いであるべき神聖な戦い(なんでしょうね)が吹っ飛んでしまう実に悲しい出来事です。
昔、タリバンが磨崖仏だったかな、もう跡形もなく壊してしまって、まずそこでもうタリバンなんて信用できないと思い込んでしまっている僕なんかはエジプト人も信用できない人種に位置付けてしまいそうである。

2013/08/20

天王寺野音

天王寺公園にあった野外音楽堂?にも行ったことがある。四人囃子とサディスティック・ミカバンドを見に行った(他は忘れました)・・・ファニーカンパニーも出ていたと思う。メインは四人囃子が見たかったから。
この天王寺公園の中にある野外音楽堂はまあ立地的に京都円山とは違ってかなりディープな場所にある。浮浪者がうようよいる。思い出は開場を待っている列になんというかゴザを片手に浮浪者達がやってきて「にいちゃん今日は何があるんや?」とか聞いてくる。これくらいやったらまあ普通の会話ですが、「ねえちゃんええケツしとるやないけ」とか言って若い女の子に話しかけてくる。手馴れて粋な応対をする娘もいれば青ざめて顔が引きつっている娘さんもいる。まあ実に社会勉強にもなる場所でした。
フォークはあんまり好きでなかったので恒例の春一番には一回も行ってないですね・・・・・・と思っていたのですが、どうも行った時期が5月だった記憶があり、さらに
春一番コンサートもフォークオンリーでなかったみたいでひょっとしたら春一番コンサートに行ったのかもなあと思っています。
ただ申し訳ないけど加川良とか高田渡とかは相性悪く毛嫌いしていたので見た記憶がありませんが。

円山野外音楽堂

西部講堂の続きでいろんなところのロック・コンサートにいったなあ・・・と思い出していたら、京都の円山野外音楽堂を思い出した。ひとつはウエストロードのホトケとハイタイド・ハリスを見に行ったことがある(確かメインはB・B・キングとアルバート・キングだったけどハイタイド・ハリスのほうが印象に残った)。一番の思い出はジェフ・ベックを見に行って結局本人は体調不良か何かで出られなくてしかも雨が降ってきて散々な目にあって帰った。四条で立ち食いうどん屋に寄ったら「今日はずぶ濡れのお客が多いなあ」と言われました。帰りの阪急電車にも座れず「結局今日は誰を見に行ったのか?」という最悪のコンサートでした。
調べたら1975年の8月6日で当時は広島にいたからわざわざ見に帰ってきたんですなあ。あのころはロックに対する情熱がありました。このあと8・8ロックデイにも行っているのだろうか?覚えていない。
でも当時はいったい何を考えて生きていたのだろうか??

頭脳警察

西部講堂を思い出したら、自動的にこれを思い出した。僕は1975年の10月頃に同志社の学生会館でこの「頭脳警察」と「カルメンマキ&OZ」を見た記憶がある。この時のライブはなかなか良かった。
個人的には「銃をとれ!」から「マラブンタバレー」に続いていくところがね・・・・圧巻です。

2013/08/19

Talking Heads

西部講堂でトーキング・ヘッズを見たのはネットで調べたら1979年の7月21日だった(実に便利です)。まだあの不朽の名作「リメイン・イン・ライト」が出る前でそれほどメジャーでもなかったように思う。僕はビートルズ世代なのでもうパンクの時代には嫌気のほうが先に出てセックス・ピストルズなんかは聞く気にもなれなかったけれど、このトーキング・ヘッズはなかなか良かった。
記憶としては非常に暑かったということが一番頭に残っている。見た後、百万遍の交差点の近所にたまたま住んでいた会社の後輩を訪ねて飲みに行った。そのあとオールナイトを見に行こうということになって(土曜日だったわけですね)あのリドリー・スコットの出世作「エイリアン」を見に行った。
今から考えたらトーキング・ヘッズのライブからエイリアンというなかなかな生活をしていたなあと思う。

京大 西部講堂

昨日の「村八分」のライブは京都大学の西部講堂での録音である。まあ頭ではこの大学には入れなかったけれどこの西部講堂には何回か行ったことがある。一番大物はトーキング・ヘッズかな(その時はそれほどメジャーでもなかったかもです)。屋根が特徴で3つの星が描かれてあった(当時)。そうそうあのフランク・ザッパ先生も来たはずだ。
でもこの講堂に似合っていたのは個人的には頭脳警察だった。「銃をとれ!」とかね。過激でした。そう思えば今の若い人はおとなしいですね。

2013/08/18

山口富士夫

山口富士夫さんが亡くなったという記事が出ていた。もうほとんどの方は知らないと思うけれど、新聞社の人はさすがに知っているということですね。グループサウンズの「ダイナマイツ」のリードギタリスト。というよりは伝説のバンド「村八分」のギタリストというほうがいいでしょうか?といっても実にマイナーな話ですが、知る人ぞ知るというギタリストさんでした。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
この村八分のレコード(エレック盤)は中古屋で高いです。僕がよく行くところはウィンドウに飾ってますからね。ジャケットも雰囲気が出ていて好きです。後ろの山口富士夫のギターを弾いている姿が恰好よろしい。

2013/08/16

Mathews Southern Comfort

ちょっと前、お風呂の中でバッド・フィンガーの「明日の嵐」を思い出してほぼ同時にマシューズ・サザン・コンフォートの「ウッドストック」を思い出したと書きましたが、出だしがまあ僕にしたら似ている範疇にはいります。で、そのウッドストックのレコードは当時シングル盤で買ったのでCDは持っていない。そういうわけでどのCDに含まれているかわからないと思いつつアマゾンで調べていたらたいていのCDにボーナストラックで入ってました。まあ大ヒットですからね。本国ではフエアポートコンベンション出身の地味なミュージシャンだった?のではないかと勝手に思ってます。
正直なところペンタングル、フエアポート・コンベンション等々は当時頑張って聞きましたが私の耳にはちと難解でした。
サザン・コンフォートはジャニス・ジョプリンが好きだったお酒だったような記憶がありますがこのジャケットとおなじものが瓶に貼ってあったような???昔の話です。

2013/08/14

冷血

お盆に久しぶりに本を読んだ冷血3冊(正確には高村薫の上下2冊とカポーティ1冊)、カポーティのほうは昔からペラペラと見ていたしあらすじと評論は読んでいたのでまあこういう本だったのねという感じで完了。もう情報が多いから感激もそうなかった。高村薫の方は面白かった。初めはどこに行くのかなと思いながら、世田谷事件の犯人を当てる小説かなとまあ非常に通俗的に読んでいったのですが下巻になってから一気に個人的にははまりました。殺意のない「ボー」っとした殺人にたいして殺人に至るまでにはそれなりの理由があらねばならないと考える検察との駆け引きというか空振りの話が実に面白く?(という表現が妥当かわからないですが)というより興味深く感じました。こんな時代になってきているのかもなあと段々追い出されそうな世代をひしひしと感じました。

2013/08/13

冷血

まあ盆休みに何か読もうと思って高村薫の「冷血」を買い求める。ベースはカポーティのこれまた「冷血」だということで、積ん読のみほんみたいなこの本をまず先に読もうかなと。
そういう意味では買って積んである本は多いなあ。昔勤めていた会社の社長が「本はまず買わないと読めない」と言った格言がやたら身についてしまってまず買うことまでは実行できてます。
この盆は3冊読破でいきたいですね。

2013/08/11

BADFINGER

お風呂に入っていると突然この歌が浮かんできた。久しぶりである。こういうときって脳の構造がどうなっているのかと思う。
ある意味悲劇のバンドかな??そうでもない??
ビートルズの秘蔵っ子的なデビューでしたけど。
この歌を思い出したのは、少し前にCSIマイアミのファイナルシーズンを見ていたらすっかりおばさんになったラクエル・ウエルチが出ていて、マジック・クリスチャンを思い出したからだろうか?
マジック・クリスチャンという映画はまあようわからん映画でしたけどリンゴ・スターが出ていたから見に行った思い出がある。
この「明日の嵐」という曲はシングル盤を弟が買ってきたからよく聞いた。裏が「ウイズアウ・トユー」です(ニルソンね)。
ジョージのヒア・カム・ザ・サンを一緒に演奏していたのはピート・ハムだったかな?自殺しちゃったのはジョーイ・モーランドだったかな?もう記憶が定かでないです。
このバンドその後も息が結構長く、後半にはあのイエス、バジャーのトニー・ケイも入って驚いた記憶が残っている。
この「明日の嵐」はいい曲です。
これを聞いていると、なぜかマシューズ・サザン・コンフォートの「ウッドストック」を思い出す。雰囲気が似てるからかな。

2013/08/10

BATMAN

最近は昔アメリカのコミックのヒーローを現代の映画技術で再現したものが結構ある。バットマン、スパイダーマン、グリーンホーネット・・・ほかにもあるのかな。まあちょっと古いけどスーパーマンもリメイクだったですね。
日本で翻訳版が出ていたのか覚えていないけれど、借りて読んだか持っていたか忘れたけれどスーパーマンのコミックでスーパーマンが困ったらバットマンが助けに来たシーンを覚えていて、バットマンはスーパーマンの友達であると思い込んでました。

2013/08/06

numb3rs over

なんせ2年落ちくらいで海外テレビドラマを見ているから、天才数学者は今日最後を見た。シーズン6まであったから意外とネタが続いたかなと思う。何でもかんでも数学的に分析するのは難しいだろうと思っていたので、まあ途中からもう説明のところはどうでもいい感じになりましたが。
先日はCSIマイアミが僕としては完結しまして。ずっと見てきたシリーズの二つが終わりました。
マイアミのほうも団らん風景で完という感じで、こちらもそれぞれの旅立ちで完という感じでした。

2013/08/04

Carlos

5時間にも及ぶ映画(正確にはテレビドラマ)を見る。まあそれほど思い入れがあって見出したわけでもないですが、途中から日本人が出てきて自分の記憶にある事件が続いてさらに続いて出てきて自分の人生におけるテロ事件ニュースの集大成みたいな感じであった。
こういう向う見ずな連中を早く言えばソ連とアメリカが交互に利用している構図がよくわかる。冷戦の時期には上手く世渡りしてある意味好きなこと(?)して大金を稼いでるような気がしないでもなかった。もう大義名分は全くないという感じです。
日本人のテロ事件も出てくる。オランダのハーグでのアメリカ?(フランスだったかな?)大使館襲撃事件(日本赤軍)、パレスチナで訓練を受けるシーンなんか日本人で海外に逃走した連中もこんなことしていたのかなと全然違うことを考えてしまった。
もう遠い昔のことになってきたけれど、僕はJR琵琶湖線の石山駅の前の荒れ果てた「旅館」を見る度に彼らは今何をしているんだろうといつも思う。不思議な時代だった。
今思えば資本の論理があるだけで、資本主義とか共産主義とかという選択できる主義なんてものは全くなかったと思う。あるのは資本の動きです。ロシアでも中国でもイランでも資本は動いている。

2013/08/02

Johnny Winter

若かりし頃のジョニー・ウィンター、なんかすっごいギタリストがいるという記事が雑誌に載りだして、もの凄い契約金で大手のレコード会社が契約したとか、なんというか夢みたいな話が結構ころがっている時代でした。そんな上手かったら昔から有名じゃないのか?と今なら思うけれど、当時はそんなアーティストがいっぱいいたような気がする。デュアン・オールマンなんかも僕にしたら突然出てきたし、マスコミの情報網に引っかからないアーティストがいるのって楽しいといつも思う。

2013/08/01

Johnny Winter And Live

久しぶりにこれを聞いている。Johnny Winter And というバンド名であります。初めはバンド名とはわからず。ジョニー・ウィンターとライブ?(意味わかんない)。僕はこのジャケットの写真が好きでそれにロゴも好きです。ブルースとそれに「ロックロール」の掛け声で始まるロックンロール大会は圧巻。ジョニー・ウィンターのバンドみたいですが実はもう一人リードギタリストの名手がいてツインリードのバンドです。もう一人がロックンロール・フーチークーのリック・デリンジャーで、もうびっくりしました。