2012/02/29

香港家

昔々といってもそれほど昔でもない。とある中華やさんがありまして「香港家」という名前のお店でした。ほんのたまに利用しておりました。味はかなり気に入ってました(ちょっと濃いめ)。このお店の前を歩いて帰っておりましたが、帰宅が遅い時は、いつも店が閉まった後でご店主がビールを飲みながら帳面をつけておられる姿が窓越しに見えてました。いつも難しそうな顔だったので収支がしんどいのかなと思っておりましたが、結局お店をたたんでしまわれました(もう1年以上経つかな)。まあどこかにもっと大きなお店を出されたのならハッピーですが、あのしかめ面はそうでなさそうな気がする。外食は意外と経営は難しい。誰でも参入しやすいだけにね。

2012/02/27

昔見た映画

最近は何でも見ることが出来ない。「何を?」。そうそう分かりませんね。映画です。若い時は雑食性だったので何でも見たのですが。最近はミステリー・サスペンスしか見れない。他のは見出しても途中で止めてしまう。その原因はパソコンでDVDを借りてみるからです。昔は映画館かテレビだった。途中で映画館を出るとか途中でテレビをチャンネルを変えるというようなことはまずやらなかった。
そんな若い時見て感激した映画「ミツバチのささやき」です。アナ・トレントって言ったかなこの子。こういう映画を見ようという気力がなくなってますね。
人生っていろんな定義が出来ますが、こういう映画を見て感激するだけで生きている価値があるような気がする。そんな気になった映画です。

2012/02/26

藤圭子 (3)

前にも書いたような気がするが、藤圭子という歌手には1969年の秋に大阪の吹田の井村楽器というレコード屋にデビュー曲の「新宿の女」のプロモーションに来ていた時に出会っている。こちらは予備校帰りのはず。まあミーハーですから誰か来ている感じの人だかりにのこのこと見に行ったのでしょうなあ。この時から不思議な雰囲気を持っていてほとんど「お願いします」とか「買ってください」とかの言葉はなかったように記憶している。全然喋らないおとなしい少女という印象だった。そのあとテレビに出ていた時に「この歌手レコード屋で見た」というような話を家でしたように思う。その翌年の1970年にこの「女のブルース」でブレークしてしまう。不思議な印象っぽい話は村上春樹も「村上朝日堂」で同じような印象を書いている。




2012/02/25

藤圭子 演歌を歌う (2)

これが裏のジャケットになる。1970年10月の渋谷公会堂ということで驚異的な現象の真っ只中の録音。「歌い継がれて25年」というキャッチフレーズが添えられているが、戦後から25年経ったときが1970年(昭和45年)だった。それから気づけば40年以上たっているわけだから。今聞いたら若い人には知らない歌ばかりだと思われるが、僕らは結構親が口ずさんでいた歌もありダイレクトには知らないが知っている歌も多かった。「銀座カンカン娘」「りんごの唄」などは僕の親父も意外と口ずさんでいた。「りんごの唄」なんじは戦後復興のエポックみたいな唄だったらしい。
「歌は世につれ、世は歌につれ・・・」で始まる芥川隆行さんの司会で始まるいかにも昭和のステージらしい雰囲気に違和感を覚えたはずだったのにどうして藤圭子だけ聞いたのか今もって不思議だと思っている。他の演歌はまず聞かないですから。

2012/02/24

藤圭子 演歌を歌う

唯一持っている演歌のレコード。よく聞きました。レッド・ツエッペリンと交互に聞くという離れ業もやってました。網走番外地なんかカラオケで歌うほどに。不思議な年でした1970年は。
1970年は千里丘陵で万国博が行われ当時としては最大級の動員数であった。始まったのが3月の中旬(多分15日でしょう)で、この頃僕も含めて晴れて友達全員が大学生になれて万博を見に行った。当時は今ほど未成年云々の規制がやかましくなく、大学生は大人ということでタバコを吸いビールを飲んも罪悪感はなかった。よう考えたら大学1年でコンパで飲んでたもんね。そういう意味では18歳で成人が実態にあっているかもしれません。そのうち3月末に「よど号事件」があって僕の行く大学の先輩(と呼んでいいのかわからないけど)もリーダー格でいて、バック・トゥ・ザ・フューチャーのマイケル・J・フォックスじゃないけどかなり「ヘヴィー」なスタートとなった。4月になって大学にいったら「70年安保」闘争とかで校門はバリケードがあるし(まあ入れて授業はあったけど)。10年前の60年安保みたいに国会をデモ隊が囲むのかなと思ったりした。
なんかザワザワ感のある時代でしたね。

2012/02/23

olympus

僕の大胆な予想は外れて、オリンパスは上場廃止にもならなかったし、監査法人にもお咎めがなかった。まあそれはそれでめでたいことかな?それでその後の経緯を見ていたら、結局メインバンクから会長のポストでやってくることになった。「オリンパスよお前もか」という感じである。
昔々広島の某自動車会社に勤めていたら、業績不振で今回のオリンパスと同じ銀行からえらいさんがやってきた。その後転職した勤務先では業績が好調だったから逆にハイエナみたいに出来の悪い落ちこぼれ銀行マンを送り込んできた(まあそこそこ役に立ったら役員にしたってくれてな感じである。役にたたんでも数年は役員にしたらんと仕方がないわな)。全く仕事は出来なかった。僕はその落ちこぼれのお守りでえらい目にあった。結局僕がその会社を辞めたのはそのお守りに身も心も疲れてしまったからである。サラリーマン社会は実に面白いというか変な社会で、そのあほの上司を守れば守るほどその上司は出世しこちらの疲れは倍増していった。こういう社会は向いていないと思った。「あほの面倒はみておれんわ」というところである。
ということで僕はあんまり銀行という職業に共感がない(正直嫌いである。他人の褌で相撲をとってええとこだけ取りに来る)。事業というものは1回で結果を出そうとするから失敗が多いので、2回、3回アタックできるお金があればかなりの勝率が出てくる。
金だけ出さないというのがいかにも日本的かなと思う。行かされた銀行マンも大変なのはよく分かるんですがね。外人投資家が反対したら面白いと思っている昨今であります。

2012/02/22

ZZ Top

BONESというアメリカのドラマを見ている。もう骸骨がど~んとのっけから出てくるし、まあ飯を食いながらは見れない。結構面白い。すべて自然科学的に分析してしまうブレナン博士と意外と信心深いブース捜査官との会話も楽しめる。この番組にどういうわけかZZTopのビリー・ギボンズが準々レギュラー的な役割で出てくる。なかなか楽しい。このBONESというドラマには以前にもシンディ・ローパーが出たり、モトリー・クルーがバンドそのままの役で出てきて演奏したり、なかなかROCKっぽいです。

2012/02/21

i phone

ついに「iphone」を手にすることになった。まだよく分からないことが多い。たださわっていて面白い、楽しいという気持ちになる。昔ジョブスがアップルを追い出された頃に当時の伝記を何冊か読んだことがある。ロータスという伝説的なソフトの社長(名前は忘れた)とジョブスとビル・ゲイツの3人が比較的に書かれていた本だった。何かにつけビジネス的に優等生っぽいビル・ゲイツとどちらかといえばアンチ優等生的なジョブスとロータスの社長が印象的だった。個人的な予感ですが、このiphoneになれた人が増えれば、iphoneがこのまま大きくなれば実に使いやすというかそのままである。その予兆がipadなのでしょうが。個人的にはipadに必要な時にキーボードが装着できてエクセルとワードが使えればもういわゆるIBMから派生してきたPC群はいらない時代が来そうな気がしている。
今回iphoneを使う時に他のスマホも検討したけれど、やはり使い安さなどの項目より「伝説」を使ってみたいという要素が強かった。何でもかんでも比較して安い方、ある基準でいい方を買うというのは正しいのかもしれないが、好きなものを買う、気にいったものを買うというポリシーは貫徹したいね。この何でも瞬時に比較できる世になってなおさらそう思うことが多い。

光市

ビートルズから一転「光市」です。10年以上かかった光市の事件に終止符が打たれた。基本的には人を殺めたら自分の命で償うのが常識という実に単純な考えの持ち主ですから、僕の頭では分からない難しいロジックで「無期懲役(さすがに無罪はいない)」を主張される賢い弁護士さんの主張が理解できなかった。
光市ってどんなところだったかを思い出していた。広島に3年間住んでいたのでドライブで何回か行った事があった。写真は伊藤博文の記念館だそうである。伊藤博文って柳井だと思っていましたが・・・熊毛郡出身の同期がいて、熊毛郡の生んだ首相と威張ってましたけど。熊毛郡って光市だったのか・・・。
でも今から考えたら昔の首相って良くも悪しくも威厳がありましたなあ。

THE BEATLES NO.5

これが日本の5枚目のアルバム。「抱きしめたい」と「シー・ラブズ・ユー」のドイツ語バージョンが収められている。後にも先にもドイツ語で歌っているのはこの2曲だけ。これは誰の企画だったのだろうか?

2012/02/20

BEATLES '65

段々と主としてアメリカからの輸入盤が輸入盤専門店や心斎橋の日本楽器や百貨店のレコード売り場に陳列されるようになると高嶺の花で絶対買えるものでなかったが見ることだけは出来た。このアメリカで出た「ビートルズ '65」というレコードはちょっと戸惑うレコードで、日本では1965年の多分3月(僕の記憶では2月だったような)に発売された「BEATLES FOR SALE」が日本では「ビートルズ '65」という帯がついて発売された。それでこのジャケットは「BEATLES NO.5」という名前で65年の6月くらいに発売された。

2012/02/19

something new

これはアメリカで出された編集盤でエド・サリバン・ショウの画像がジャケットに使われている。エド・サリバン・ショウには1964年は行く都度出演していたみたいで特別待遇っぽい・・というかエド・サリバン・ショウがビートルズでそれまでよりさらに格を上げた感じがする。



2012/02/18

meet the beatles !

誰かが「ミート・ザ・ビートルズ」の青いのがあると言い出した。阪神百貨店に飾ってあるというのでみんなで見に行った。確かに青い。輸入盤で当時5000円くらいの値がついていたと思う(僕らには逆立ちしても買えない)。日本のがモノラルで1500円の時代である。オリジナルをイギリスと定義したら、アメリカも日本も独自の編集盤を出していた時代で、これはアメリカのキャピトルが独自編集したもので、日本はこのアイデアからジャケットを作って、曲目は日本で決めた、曲目は日本の「ミート・ザ・ビートルズ」が圧倒的に素晴らしい。世界一の選曲だと思っている。
この米国のキャピトル盤は「イギリスの現象的なポップコンボのファーストアルバム」って書いてある。「コンボ?」ってラテンのバンドっぽい表現だと思ってしまったが、当時は少人数のグループの楽団をコンボって言ったのでしょうね。

2012/02/17

A HARD DAY'S NIGHT

THE BEATLES の日本での3枚目です。これも日本のオリジナルジャケ。「素敵なダンス」をジョージ・ハリソンが歌っているところ。

2012/02/16

THE BEATLES' SECOND ALBUM

日本で出た2枚目のLPレコード、これも日本での編集盤である。当時ビートルズのLPに関してはアメリカは片面6曲計12曲で、日本は片面7曲の計14曲が一般的だった。まあ1曲の平均が3分くらいの時代の話。この写真は一番最初の時の帯の写真。僕の持っているのもこの1枚のぺラッとした帯です。1500円。虎の子の1500円でしたね。もちろんオデオンです。

2012/02/15

with the beatles (2)

こっちがパーロフォン盤ですね。小さな会社だったみたいですが、まあ儲かったのはともかく永遠に名前が残るというのはいいですね。パーロフォンなんてビートルズがいなかったら日本ではまず誰も知ることのないレーベルですもんね。

with the beatles

こっちがオリジナルというか厳密にはほんまものの原盤でないとおもうけどイメージ的にはこれが原点。これに赤色の文字が追加されてオレンジ色も加わる。オリジナルの方が渋いわけですが。日本の「ミート・ザ・ビートルズ」はインパクトがありました。

2012/02/14

Meet The Beatles !

多分日本人ならこのレコードでビートルズを知った人が圧倒的に多いだろうと思う。僕は今でもこの曲の順番が出てきてしまう。今でも日本で発売された(というか日本で編集された)CDを当時の発売順に出して欲しいと思っているが、一般的にイギリスで発売されたものが正規盤みたいになっているみたい。この日本版「ミート・ザ・ビートルズ」はいわゆるベスト盤みたいなものでそれまでビートルズがイギリスで出したものからヒット曲をセレクトしたものであるから悪いはずはない。最高の出来です。ジャケットもイギリスのウィズ・ザ・ビートルズをベースに赤のビートルズのロゴが目立ちます。でオデオンです。やはりオデオン盤ですわ。と訳の分からんたわ言で今日も終わります。

2012/02/13

the beatles

いい写真ですね。白黒が実に似合うグループだったように思います。ちょっとマラソンの思い出が尽きました。僕の思想(そんな大げさなものではないですが)は基本的にはすべてが「1964年」から始まってます。

2012/02/12

重松森雄

アベベが東京オリンピックで出した世界最高記録は初めての2時間12分台で僕はこんな記録当分破られないだろうと思っていた。そしたら翌年(1965)にイギリスのマラソンで世界記録が生まれた。走ったのは日本人の重松森雄というランナーだった。寺沢、君原、円谷は知っていてもその3人以外は知らなかった。(後の情報では東京オリンピックにも選ばれるチャンスがあったくらいの選手だったらしい)。記録はなんと2時間12分00秒ジャストだった。これ以降日本人がマラソンで世界最高を樹立していない。それからこの重松選手が出るマラソンは出る都度期待してみていたが、残念ながらそれほど活躍するシーンは見れなかった。

2012/02/11

mamo walde

アベベがローマと東京と2つのオリンピックに連勝してメキシコに乗り込んだ時は、僕はもう3連覇するとかなり強く確信していた(変な表現であるが絶対に勝つと思っていた)。なにせ東京では盲腸の手術をした後で優勝している。メキシコの時はそんな病気の話もないし勝つと思っていた。今ではかなりの情報が整理されて到底走れる状態でなかったことがわかってくるが、当時はもう超人アベベだった。記憶ではテレビの実況は無理だった。ラジオで聞いていたように思う。初めはアベベがトップ集団にいたが割合に早期にリタイアしてしまった。ただ驚いたことにはメキシコでの優勝はアベベの陰の存在だったマモ・ウォルデだった。エチオピア3連勝。こういう記録はその後もない。マモは次のミュンヘンでもメダルを取っている。マモはメルボルンから出場しているはずだから息は長い。5大会出場である。
このようにアベベに劣らずエチオピアの英雄であるはずのマモについては過去にも書いたが可愛そうな結末が待っていた。

2012/02/10

円谷幸吉

国立競技場に入る寸前のワンショット。背後にヒートリーが迫ってきています。円谷の後ろで声援している若者の表情がいいです。東京オリンピックであがった唯一の「日の丸」であった。

2012/02/09

abebe(6)

東京オリンピックのマラソンの表彰台、ヒートリー、アベベそして円谷の3人。ヒートリーはその時の世界記録保持者でこの日アベベが更新したことになる。円谷は日本勢のエースであった寺沢、さらに君原をかわしてダークホース的存在から一躍トップランナーへ。まあこれが悲劇の始まりだったかも。

2012/02/08

abebe(5)

東京オリンピックの時のアベベ、靴をはいてます。「プーマ」らしい。今アシックス、当時のオニツカがずっとアプローチしていたみたいですが当時はまだスポンサーという概念もなかったようであります。なんか格好よろしい。雰囲気がごっつう出てます。まさしく「王者」ここにありという感じで。
今では考えられないですが、一番最後からゆっくりとスタートして全員を抜き去ったことになります。
東京オリンピックという市川昆監督の名作がありますがこの映画の中のアベベは実にカリスマむんむんであの映画の主役はアベベですね。

2012/02/07

abebe(4)

やはりアベベといえばこのローマ大会の裸足のアベベですね。ほんまに裸足です。後ろが当時の大本命のモロッコのラジということで引き離しにかかっているところ。


2012/02/06

abebe(3)

アベベは例のウィキによれば16回マラソンを走っていて、12回優勝、2位1回、5位1回、2回棄権というすごい成績である。国別にみたらアジスアベバ5回(当然ですよねエチオピアですから)、次が日本の3回、次がサラウスマラソン2回と書かれてますが、サラウスって何処だろう?スペインに似たような地名があります。走るのによさそう。ですが確証はありません。ともかく母国以外では日本が一番多いというのはうれしい限りです。大阪と東京とこの大津の滋賀毎日マラソンです。
今でも各種選考レースの最後のレースと位置づけれていて結構駆け込み参加者(昔の瀬古さんもそう)がいて賑わいます。どうも知らべてみると、今のコースと全然違っておりまして、大津の皇子山競技場から今の湖西線に沿って堅田まできて「琵琶湖大橋」をわたって守山に来ています。それで守山の今の自動車試験場あたりでUターンしてまた「琵琶湖大橋」をわたって戻っていった感じです。僕はこの時、修学旅行でしてラジオで勝ったのを聞いた記憶が残っております。今から考えたら修学旅行よりこのレースを見たかった。

2012/02/05

abebe(2)

これはアベベがローマオリンピックで勝って、凱旋帰国した時の写真です。ものすごい人だかりですね。





2012/02/04

abebe

1964年の東京オリンピックで甲州街道をひた走るアベベです。ホンダのバイク屋の前を走ってます。1964年ってこんな感じだったかなあ。もうちょっと近代化されていたように思ってましたが、昭和20年代と間違いそうです。もう新幹線が走っているんですが・・・田舎を走ったからか?東京近辺ですね。新宿をあがっていけばこんな感じだったのすね。何を考えて走っていたのでしょうか。アベベのすごさというか伝説化の後押しをしたのは、オリンピック2連覇、もう一人おりますが価値が全然違う。さらにオリンピックの勝ちタイムが両方とも世界最高記録、そして蛇足ながらローマは裸足で走った。
こっからは全く個人的な思いですが、なにせ風貌が良かった。哲人とはこういうものかなという気が今でも持っている。白人と移民(移住させられた)黒人ばかり勝つ東京オリンピックで自国から参加して圧倒的な勝ち方でしかも賢そうだった(賢人)。
哲学者が走っている雰囲気を後半の独走になってから感じた。
僕はこの中継を中学校の体育館で見た。どういうわけか体育館の真ん中にテレビが置かれて、いすが用意されていて見れるようになっていた。授業はやっていたと思うけれど、初めから見た記憶はないけれど後半はリアルタイムで見た。

2012/02/03

Derek Clayton




マラソンを興味を見るようになったのは、多分「アベベ・ビキラ」というエチオピアのランナーが1960年のローマオリンピックで裸足で走って優勝したという話を親が喋っていたことを覚えていてアベベって・・・・。そういう話題になった人物をすぐに招待する癖は日本には昔からあったみたいで多分次の年(1961)に日本に招待しているのだと思う。昔の記憶なんで、大阪城から岸和田城まで走った(なにマラソン?)ように覚えてるんですが(調べたら毎日マラソンでこの時は浜寺公園発着となっている。お城の記憶は何処だったのか?)。でアベベが日本に来て興味を持って見出したマラソン中継で代表的なマラソンが朝日の福岡マラソンであった。当時は一番権威のある大会だったように思う。何時からか国際大会という名前になって、東京オリンピックから数年後かなこのデレク・クレイトンという人が2時間10分を切った。いわゆるサブテン第1号ですなあ。今でも10分きったらそこそこええ記録だと思うので当時は遂に出た幻の・・・という感じだった。40年以上前に10分の壁は破られた、今は3分の壁が破られて2分、1分そして2時間の壁も・・・。左は佐々木精一郎選手で11分台だったこれもすごい記録だった。アベベの記録より速かったから。この時はどきどきして見ていた。

2012/02/02

1992 小鴨&松野

こんな画像も保存していた。1992年の大阪マラソン。小鴨ちゃんがビックリするようなタイムで優勝。バルセロナへの切符を手にしてしまう。この時の松野は2位で2人とも日本新記録だった。本来ならこの2人でオリンピック行きなんですがそうは行かなかった。有森派が陸連にいたのですね。そこで「私を選んでください」という前代未聞の記者会見をしたのがこの時です。結果は松野は選ばれず。選ばれた小鴨ちゃんはバルセロナでは期待に応えられずその後の人生に尾を引くことになる(と勝手に思っている)、松野はオリンピックには出られなかった(悔しさが尾を引いたか僕には分からない)。ただこの2人のその後の人生は対称的(あえてこの字を使います)で、「派手と地味」というか「露出しすぎと控えめ 」というか、この2人が手を振っているこの写真はある意味不思議な面白さがあります。2位の松野のほうが両手を挙げて1位の小鴨の方が「いいのかな」っていう雰囲気で。僕は偶然次の日所用で天満の辺りに行ってついでにマラソンコースまで行った記憶がある。

2012/02/01

2001エドモントン

2001のエドモントンのマラソンで団体優勝した時の面々。左から大南敬美、土佐礼子、渋井陽子、松岡理恵、松尾和美です。左の3人は今もまだ現役(ぼちぼち引退も)ですが、右の「てんまや」コンビは結構左の3人に比べて活躍期間は短かった。記録的には遜色ない記録を持っていたのに。松岡さんは復活途上にあったような気がしてましたが(多分いろいろあったのでしょうね)、松尾さんはもうあっという間の4つのマラソンでした。