2011/10/31

アサギマダラ

これがアサギマダラです。渡り鳥(蝶)として有名。こんなか弱いチョウチョが海を渡って来るというのが信じられない。ツバメが飛んで来るというのもホントかなあと小学生の時は思ったくらいだから。

2011/10/30

ブータンシボリアゲハ

このようなアゲハ蝶が見つかった(新種ではなく絶滅したと思われていたのが生きていた)ということで実にうれしい記事が載っていた。僕の勝手な記憶というか思い出かもしれませんが、小学生のとき高学年になったら昆虫採集を夏休みの宿題でせねばならないというような時期があったと思っているんですが、なにせ小学4年の夏休みは男はみんな昆虫採集をやっていて朝から網をもって駆け巡っていた。周りで飛んでいるチョウチョはモンシロチョウ、モンキチョウ、シジミチョウ、アゲハチョウ、キアゲハ、アオスジアゲハ、クロアゲハ等々みんな同じものを採集していて目玉がなかった。それで生駒山に親父が連れて行ってくれた。ちょっとは変わったものも飛んでいるだろうという感じですね。でもなかなかそれまで採集しているものしかいなくって収穫ゼロで帰らざるを得ないかなというときに親父が「あれはなんやろ」と言いながら網をもって追いかけて捕まえた。ちょっとフワフワッてゆっくり変則ビートで飛んでいたチョウチョで実にきれいなチョウチョだった。帰って調べたら「アサギマダラ」といって、僕の夏休みの宿題の目玉標本になった。
今では信じられない時代ですが、それなりにいい時代だったと思う。


2011/10/29

ルーチェ

僕が広島に住んでいた頃はこの車がマツダの最高峰だった。この後このルーチェはでかくクラウンやセドリックを目指して大きくなるが全然売れなかった。この時期のルーチェが一番旬だったように思う。特にハードトップはちょっとヤンキーっぽいバタ臭さがあって意外と若者も乗っていた。特にフロントマスクは気に入ってた。 それにハードトップの横の一直線のラインが好きでなかなかいいではないの・・と思ってみていた。僕には高くって買えなかったですけど。


2011/10/28

初代コスモ



なんともいえない「良さ」を感じるシルエットです。当時150万くらいだったというような話を聞いたような??今ならいくらくらいなのかな?スカイラインのGTRクラス?ともかく夢見たいな車に思えた。今見たらホィールも普通ですし、もっと着飾ってもいいのではと思ってしまいますが、当時はこれでも近未来カーだったのだと思います。近所に乗っていたお医者さんがいてちょこちょこ覗きに行ったものです。

2011/10/27

コスモ

これは2代目のコスモである。超低迷していたマツダの起爆剤として投入された。当時の感想ではこんなでかい車売れるのか?初代のコスモは小さかったので特にそう思った。1975年の後半に出たように記憶してますが。友達が長期のローンを組んで購入した。どうしても欲しかったみたいである。悪友が乗り込んで乗り回したものである。周囲の人が「コスモだ」という顔で見るのが気持ちよかった。このあたりからちょっとずつマツダも復活の方向へ向かったのかな??

2011/10/26

RX-7



マツダがついにロータリーエンジンの生産をやめるらしい。一世を風靡したコスモやサバンナやRX-7が消えていく(こういう表現はおかしいですが)。ピストン運動より回転運動のほうが効率がいいという実にまっとうな考えから開発されたロータリーエンジンはマツダが初めから開発したのではないが実質量産のエンジンにまでもって行ったのは紛れもなくマツダである。ルマンも制したし栄光の時代もあったのですが、燃費がやはりこのエコ時代には合わなくなってしまったようです。

RX-7はリトラクタブル・ヘッドライトを採用して僕らでも手が届くポルシェみたいと購買欲をそそった。

ひとつの時代が終わった。

2011/10/25

The Rollig Stones (3)

僕は白黒の写真が好きで特に1964年頃の写真は白黒でいいものが多い。一番左がブライアン・ジョーンズで一番初期のリーダー格である。それから徐々にミック・ジャガーとキース・リチャーズに移っていく。その葛藤があったのかどうか知る由もないが早々に死んじゃった。音楽的な造詣の深さはブライアン・ジョーンズがピカイチでソロアルバムも出しているけれどアラブかアフロかのサウンドだったような記憶がある。でもみんな若いですね。キース・リチャーズなんて今の姿から想像もつかない。

2011/10/24

The Rollig Stones (2)



「サティスファクション」のシングル盤のジャケットが1965年時点ではこれであったのか記憶にありません。このあとストーンズのイメージにあった名曲が多く出てくる。個人的には「一人ぼっちの世界」「19回目の神経衰弱」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「黒く塗れ」「ホンキー・トンク・ウィメン」の5曲、「サティスファクション」を入れて6曲がストーンズのイメージに合う名曲だと思っている。あとは「悪魔を憐れむ歌」と「ストリート・ファイティング・マン」が双璧。ここまでがなんというかちょっとひねくれた悪がきのイメージに合っている。本当は初期の「テル・ミー」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ハート・オブ・ストーン」のようなブルースをベースにしたものの方がストーンズらしいかなと思ったりすることが多々ある。

2011/10/21

george yanagi(4)

柳ジョージのCDのジャケットはごく普通の路線のものとちょっとアメリカン・オールディーズ・ファン指向のものとがある。後者のほうが圧倒的に面白い。






2011/10/19

george yanagi(3)

これは柳ジョージ直筆のCDのジャケット。こういう人は多彩な能力を持っている人が多いが柳ジョージもなかなかのものである。マリリン・モンローが出ているアリゾナの映画館の看板を見ている少年。昔々、小学生の頃、耳鼻科に通っていたことがある。その病院の待合室に洋画の月刊の雑誌があって、そこに出てくるマリリン・モンローに釘付けになった記憶がある。通院は面倒であったが、その雑誌を見るのが楽しみだった。もう金髪で水着でっせ。この世のものとは思えなかったですね。
マリリン・モンローは僕が小学生の高学年の時に亡くなった。朝日新聞にも記事が載った。この時はテレビ欄しか見なかった新聞の中身を読んだ。


2011/10/18

george yanagi(2)

ATLANTICレーベルでレコードをリリースするというのが柳ジョージの夢だった。そのATLANTICから出たレコードのベスト盤。このジャケットも気に入っている。あの時期のアメリカに対する憧れだけでなく畏敬というか単純に言い表せないものを当時のアメリカは持っていた。摩天楼と南部のタバコロードみたいな対比が気に入っている。


2011/10/17

george yanagi

柳ジョージが亡くなった。ちょうど1年位前に「GOOD TIMES」について書いたことがあったけれど、まだ若いのに残念です。この人のレコード(CD)は非常にたくさん出ていて全部集めるのは大変である。1年位前のこのブログで全部集めようかなというようなことを書いたけど、正直今から集めることが大変というより、もう一度聞きなおすのがちょっとしんどい。いわゆるGOOD TIMES路線ならいつでもOKなんですが、要はオリジナルの方が出来が悪いというのでなく、今聞くのがしんどい(わけはわかりません)。
ただGOOD TIMESの方はジャケットもいい出来でこれも粋でしょう?


2011/10/16

The Rollig Stones

ビートルズが大センセーションをまき散らしていた頃、追随するグループはほとんど東芝音楽工業勢で他のレコード会社にはまともな対抗馬がいなかった。このローリングストーンズはその東芝以外のレコード会社の対抗馬の筆頭であった。それで1964年の頃はやたらとビートルズと肩を並べるとか言って煽るけど、ヒット曲がイギリスではヒットしてもアメリカではいまいち(つまり全米NO.1がない)で、正直苦戦していた。「テル・ミー」と「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」は地味で、「ラスト・タイム」は地味さは抜けたけれどまだインパクトが少なかった。ところが1965年の夏に後世に残るびっくりするようなメガヒットをかっ飛ばす。「サティスファクション」がそれである。いまもって最高のヒット曲だと思っている。 これはビートルズを超えている。あの出だし、ヒット曲は出だしで決まるというのは僕の持論(同じ意見は多い)でその見本みたいな曲である。このイントロだけで総立ちですもんね。
キース・リチャーズは今まで何回このイントロを弾いたのだろうか。



2011/10/15

gerry marsden

マージー河のフェリーボートでのジェリー・マーズデン。Gerry & The Pacemakersはビートルズの弟分(というか友達ですね)としてブライアンエプスタインのマネージメントの第2号として売り出された。ビートルズにデビューソングとして用意されたミッチマレーの「How Do You Do It」をビートルズが蹴って、それをデビュー作として彼らが歌って見事1位を獲得、勢いに乗って3作目まで連続1位を獲得して、どちらかといえばビートルズより華々しいデビューをした。この記録はあのフランキーゴーズトゥハリウッドまで破られなかった記録であります。このジェリー・マースデンは時代がロックの時代に変わるときにあっさりとその路線から身を引いて、イギリスのお茶の間のタレントと懐メロ路線で身を立てるようにしたみたいである。リバープールでは今なおスターみたいで、特にサッカーファンの「ユルネバ」ソングはこの人の定番になってるし、故郷を出て行ったビートルズより故郷で活躍するジェリーマスデンの方が親しみをもたれているかもしれません。それに愛着のある顔してます。

2011/10/14

pop gear

ビートルズのレコードが出た頃、画像はなかなか見れなかった。ビートルズは映画で見ることが出来たが、他のイギリス勢のバンドはなかなか見ることが出来なかった。多分イギリスのテレビ番組を買い付けてくるような国際社会ではまだなかったのだろう。だからこの「ポップギア」というようなクチパクコンテストのような映画も非常に貴重な映像だった。
この映画にはかなりマイナー(日本においてという意味です)な歌手も出ていて、スーザン・モーンとかビリー・デイビスというソロの歌手(他にはマット・モンローもいた)も出ていて、グループを紹介しようという意図ではなかったようである。
この映像はユー・チューブでかなりきれいな画像で見ることが出来るからぜひ見てください。見ものはスペンサー・デイビス・グループのスティーブィ・ウィンウッドでしょう。クチパクを超えてます。

2011/10/13

リバプールの若者たち(3)

「リバプールサウンド」というのは前述の「リバプールの若者たち」というオムニバス盤がでたことによるとか言う説を読んだことがあるが、記憶ではあのレコードが出る前から「リバプールサウンド」って言っていたような気がするけれどもう昔のことなんで定かではありません。「リバプールサウンド」は「マージービート」とも言う。リバプールにマージー河という大きな河が流れているからである。そこにフェリーボートが就航している。「マージー河のフェリーボート」というヒット曲もあるくらい。その曲を歌っていたのがビートルズの弟分のジェリー&ペースメーカーズであります。

2011/10/12

リバプールの若者たち(2)

これが第2集で第3集まであったと思う。ハーマンズ・ハーミッツとかヤードバーズも加わってます。なんで東芝にこれだけの面子が集まってしまったのだろう?といつも不思議に思っていた。この時期圧倒的なシェアを持っていたと思う。SONYがCBSと組んで出すまでは東芝の天下だったように思う。


2011/10/11

リバプールの若者たち

これは1964年の秋に東芝から発売されていた「リバプールの若者たち」というレコードのジャケット。真ん中がビートルズ、その周りにジェリーとペースメーカーズ、ピータ^&ゴードン、マンフレッドマン、スィンギング・ブルージーンズ、デイブ・クラーク・ファイブたちが並んでいる。この年はほとんどが東芝音楽工業のヒットでその中核がイギリスのリバプールサウンドであった。
話は変わるが、最近はリバプールサウンドとは言わない。ブリティッシュ・インベイジョンといわれる。こういうことって今までにも数多くあることなのかもしれない。歴史で習う事柄の呼び名は当時は全く違う呼び方であったかもしれないな・・・なんてことを思ってしまう。僕は当時の名前を大事にすべき派です。

2011/10/09

スカイマーク

この間北海道に行ったとき帰りは神戸空港に帰ってきた。場所的に伊丹でも関空でも神戸でも自宅に帰る時間はあんまり変わらないので空いているので帰ってくる。神戸空港は夜帰ってくると夜景がきれいなので好きである。さて神戸空港は開設した時は見物客が大勢押しかけてモノレールがいっぱいやったけど1年もしないうちに閑散として、気がつけばJALも撤退して、ANAとSKYだけになっている。その内訳は圧倒的にスカイマークが多い。神戸はスカイマークに助けられた感がある。さてこのスカイマークエアラインであるがHISの澤田社長が創設した会社であるがいろいろと苦難の道を歩いてきているが一人の個人で航空会社を作れるものだと感心している。

2011/10/08

田島直人(2)

もう1枚見つけたのでアップします。オーエンスだけでなく田島直人の表情がよく見える。雰囲気がナチスの時代って感じムンムンです。多分メダルの授与の式典の関係者である女性の方々もハイルヒトラーですね。この人たちも戦後糾弾されたのだろうか?田島直人は先日僕が行った砂川から陸路さらに航路でドイツに来たのだろう。実に不思議な気がする。

2011/10/07

Jesse Owens(2)

走り幅跳びの表彰台真ん中がオーエンスで左が銅メダルの田島直人。右はドイツの選手でハイル・ヒトラーをやってますね。なんかこの頃の日本は凄いなあと思います。雰囲気もたくましそうやし。体力も気力も負けている感じがしない。

2011/10/06

Jesse Owens

ベルリン・オリンピックといえばヒトラーとオーエンスになる。ヒトラーはアーリア人の優秀さを顕示したかったが、黒人のオーエンスが4つも金メダルを取ってしまい目算が狂ってしまった。そのあたりの表情が「美の祭典」でも垣間見えることが出来る。オーエンスは英雄になったが今のような時代でないのでその後の人生を黒人として人種差別で苦労したようである。ヒトラー、レニー・リーフェンシュタール、ジェシー・オーエンス3人とも数奇な人生を送ったような気がする。
オーエンスは走り幅跳びで金を取っているが前述の田島直人は3段跳びの金だけでなく、走り幅跳びで銅メダルを獲得している。オーエンスと一緒に表彰台にあがったわけである。



2011/10/05

オリンピア

一 昨日の沢木耕太郎の本は「オリンピア」という本である。面白い。ただ東京オリンピックをテーマにしたものも出るような話もあったように記憶しているが出たのだろうか?ボブ・ヘイズに対するインタビューの記事も見たような記憶が???多分どこかの新聞か雑誌の連載で読んだのかもしれない。沢木耕太郎は一般的に有名なものは読んだことがなく、「テロルの決算」とこの本のみだが両方とも面白い。



2011/10/04

レニ ・リーフェンシュタール(2)

ベルリンオリンピックを撮っている時の有名な写真です。映画としてはピカイチの出来で絶賛する人が圧倒的に多いです。 僕は市川昆の「東京オリンピック」もいい出来だと思っている。公開されたときはなんか評価が分かれたような思い出が残っているが後世に残るという意味では、あの映画は出来がいい。今でも時々見るから。聖火がやってくるシーン、特に富士山の麓を駆け抜けるシーンとくねくね曲がっている山道を飛行機から撮っているシーンなどいつ見てもオッと思ってしまう。


2011/10/03

レニ ・リーフェンシュタール

昨日のベルリンオリンピックで「民族の祭典」という映画を思い出した。この映画を撮ったのがレニ・リーフェンシュタールという女性で100歳を超えて長生きしてこのあいだ亡くなった。この人はヨーロッパやアメリカでは最後までナチスに加担したという汚名?をぬぐうことができずある意味不遇のままなくなったことになるのかな?そのあたりはよくわからない。このヒトラーとかナチスに関しては残されたヨーロッパ人やアメリカ人には日本人ではまったくわからない理論構造がありそうです。日本にいると彼女のアフリカのヌバ族の写真集など元気で活躍してますねえ、若いときは大変でしたねえ・・・的な感覚で暗い過去も過ぎ去って行きそうですが。
沢木耕太郎のベルリンオリンピックを取り扱った本を昔読んだ記憶があるがそのときインタビューしていたような記憶が残っている。

2011/10/02

田島直人

これは1936年のベルリンオリンピックでの三段跳びで金メダルを獲得した田島直人の写真である。なんで突然この人がと思われるだろうが、実は前回の「砂川駅」の往年の繁栄していた時代を調べていたら、なんとこの田島直人がここ(この地域、上砂川)に勤めていたことが書かれてあって、ホンマかいなと思って調べたら、京都大学を卒業して三井の炭鉱会社に勤務している。ここからベルリンオリンピックに出ているらしい。晩年は中京大学でなんとドイツ語を教えていたというからまあすごいお方です。多分当時は石炭産業は花形だったのでしょうね。後の石油産業、そして原子力産業になるはずだった??

2011/10/01

兵どもの夢のあと



夢ではなかったけれど、過去の栄華をしのばせる駅の跡。正確には駅をまたいでいる袴橋。随分昔行った時にはこの袴橋まだ残っていたけれど、今は残念ながらない。残しておいても危険でしょうけど解体するのも費用がかかったのだろうと思う。こう思うと何事にも最後の処分までのコストを見ておかねばならないということですね。
話題が逸れてしまいましたが、この風景を見たときはじ~んときた記憶がよみがえってきた。産業革命って蒸気機関からでその蒸気は石炭でまかなっていた。スタートは石炭だった。そういう意味においては人が群がって去っていきの繰り返しである。東京もこんな感じになるときが来るのかもしれない。
話が前後しましたが北海道の砂川という駅の話です。