2010/12/31

さらば虎くん

虎年もいよいよ終わりである。今年は年男でもあったのでなんとかいい年になって欲しいと念じていたがあんまりいい年でもなかったような気がする。まあなんとか無事で生き延びれたのが幸いと思っておきましょう。民主党政権はほとんど人気取りの意味のない政策ばかりで本当に後世のことを考えていないようだし、周りの諸国から馬鹿にされてこんな気分の悪い思いをさせられるのなら自民党の方が良かったと(決して自民党支持ではないですが)思っている。
最近始まった朝日新聞の孤族の特集を読むと憂鬱になってくるし、これからなんか明るい兆しは皆無のようにも思えて明日になれば「おめでとう」というのも正直なんだかなあという気分です。本当に日本はどうなっていくのでしょうかねえ。

vanilla fudge

クリムゾンの後にこの「ヴァニラ・ファッジ」ではちょっと格が違うのでやや違和感がありますが、一般的にロック、ロックと単純に言ってますが、「ロック」という音楽の概念が定着してきたのは、個人的な経験からすれば1967~69年(奇しくも69年です)あたりではないかと思っている。それまではポップス(その中にアメリカ発のロックンロール、ロカビリーがあった)というジャンルで一くくりにされていたように思う。ビートルズが出てきた時はロックではなかった。
それで「ROCK」というちょっと格が違うような概念が出てきたきっかけがこのヴァニラ・ファッジというグループの「アートロックの旗手」(だったかな?)というキャッチフレーズで出てきた「アルタミラ(ラスコー)の洞窟」のような絵のジャケットのLPであった。本当はそのジャケットをアップしたらいいのだけれど、それは検索したらすぐに見ることが出来るので今回は4枚目の「ニア・ザ・ビギニング」というLPの珍しい日本で作られた日本盤のジャケットを載せます。アメリカのオリジナルは今でも手に入りますがそれは単純な写真のチンケなデザインです。この日本盤はなかなかの出来です。中古屋でもあんまり見た記憶がない(まあ売れていなかったからね)。新品のものは当時レコード屋(大阪のワルツ堂で)で数回見ただけで買っていない(他に買うべきレコードがいっぱいあったので)。今となれば買っておくべきだったと・・・。
この写真は僕が知る限り現在ネットで見れる唯一の写真から拝借しました(許されよ)。感謝です。
当時のレコード会社の担当がアメリカのオリジナルのジャケットでは物足りなかったのでしょうね(なんやねんこれは・・という感じですから)。ヴァニラ・ファッジのレコードジャケットはは1枚目、2枚目(これは意見が分かれるかも)、3枚目はわりと凝っているのですがね。

2010/12/29

king crimson

先日からビートルズの「アビーロード」のことを書いていたら、同時にこのキング・クリムゾンを思い出していた。このクリムゾンが日本でデビューする時のキャッチフレーズが「あのビートルズのアビーロードを首位の座から引きずりおろしたバンド」ということであった。その昔、同じようにデーブ・クラーク・ファイブというグループが「ビートルズの抱きしめたいを首位の座から引きずりおろしたバンド」という謳い文句で出てきたのと同じである。僕はもうそのキャッチフレーズを信じていて、こんなLPが首位になるなんてやはり日本より数段文化レベルが高いと思っていたものである。ところがどうもそうでないような書き込みがネットで見られる。真偽のほうは分からないけれど、調べようと思えば可能であるし気になるので調べてみようと思っている。
別に嘘であってもこのクリムゾンのデビューアルバムの凄さは変わらないけれど。ジャケットも凄い。

2010/12/28

asada mao

ちょうど昨年の同じ頃に、真央ちゃんの写真をアップしてオリンピック出場おめでとうという書き込みをした記憶があるが、今回も同じような書き込みになった。昨年も調子が悪く、オリンピックへの出場が危惧されていたが、今回も昨年以上に危ぶまれていた。まあなんとか最後は奇跡を起こすんやろうという確信みたいなものは僕には根付いてしまっているが、今回のことでますますそう思うようになった。人間平等と建前はそうなっているけれど、人生生きてみたら建前は建前であって、もって生まれた強運というものほど強いものはないと常々思うことが多い。
それにしても凄い子ですわ。

2010/12/26

羽犬塚

昨日から大宰府のあたりで高校生達の乗った車が池に落ちて、乗っていた若者がほとんど亡くなってしまったという痛ましい事故が報じられて、ネットでニュースを見るたびに心が晴れない。こんな時にあんまりこんなことを思い出すのもどうかと思うけれど、まあ自分の為に書いているようなものなのでご勘弁くだされ。この事故のあった若者の住所が八女市黒木と載っていた。僕は昔々サラリーマンをしていた頃、八女市に子会社があって(今はないです。その後閉鎖。)、博多まで新幹線で行き、鹿児島本線に乗って羽犬塚というなんとも奇妙な駅名で降りてバスに乗って八女にある工場まで行っていたことがある。その時に「羽犬塚から黒木まで鉄道があったんですが・・・」という話を聞いて、決して鉄道オタクではないけれど結構好きなもので、その時に戻ってそのローカル線に乗ってみたかったなあと思った記憶がよみがえって来た。その線路は「矢部線」といって本当は羽犬塚から矢部というところまで線路を敷く予定だったらしいが、いったん黒木というところで打ち止めになったらしい。その黒木という地名が出てきたから懐かしくなってこれを書いているけど。こういう思い出し方はあんまりしたくないですね。
亡くなった方々の冥福をお祈り申し上げます。合掌。
アップしたのは鹿児島本線の羽犬塚駅ですが、今は新幹線が通ることになって大変身を遂げたようです。また僕が行き来していた頃の駅はこの写真でなくもっと「昭和のいい感じ」だったように思ってますが、現時点では見つけられませんでした。

2010/12/25

abbey road(2)

昨日アビーロードの裏のジャケットのこの通り過ぎる青いミニスカートの女性のことを書いた後、ネットで誰かが書いていないか調べていたら、日本語の書き込みにはなく、英語のところには、なんと「ジェーン・アッシャー」ではないかという書き込みがあった。アビーロードを録音していたときはもうリンダではなかったか?(もう僕の脳は古くなってすぐにアクセスできない)果たして真相は??僕は通りすがりの女性で今となっては名前も分からないということはないと思っている。
ついでにジャケットの裏の話を・・ドアーズの名盤に「ストレンジ・デイズ」というアルバムがある。2枚目のアルバムでどちらかといえば隠れた名盤である。このレコードジャケットは表も裏も秀逸の出来で、しかも裏に写っている女性が実に魅力的である。この女性のことはかなり調べがついていてというかジャケットの解説本に名前や当時何をしていた人かなど当時のデータが書かれてあります。ただCDになるときに無残にも裏ジャケは割愛されてしまっていて(こういうのは犯罪だと思うけど・・・)今の若い方は見ることも出来ない。

2010/12/24

abbey road

なんか知らんけど、アビーロードの横断歩道が世界遺産でもないけれどイギリスのなんとか遺産に指定されたそうで、これで勝手に改造とかを出来なくなったみたい。このビートルズの歴史的な名盤のジャケットの写真がとられたのが1969年の8月8日といういうことで、当時の僕は浪人中で真面目に予備校通いしていたかな??当時はあんまり音楽雑誌も深く読んでいなかったけど、ビートルズの映画(レット・イット・ビー)の話とニューアルバム(このアビーロード)の話がよく混ざってマスコミも混乱していた。個人的にはもうビートルズとしての4人の活動は終わりやなあと思っていた。中学と高校はほぼビートルズ一色の学生生活で後は受験勉強だけで、その割には大した大学にいけなかったけれどビートルズの思い出は同時進行だけにハラハラしたこともあったけど楽しかった。僕の周りにはこの横断歩道に行ったことのある奴が大勢いて、マニアの僕が行っていないのを不思議がる。そうやなあ、この間体の調子もおかしかったし元気なうちに行っておかないとなあと思い始めているところであります。
ところで、裏のジャケットのこの青いミニスカートの女性ですが、一般的には偶然に通りがかった女性ということになっていて名前が明かされておりません。表のビートルズの後ろに小さく写っている男性は名前も分かってるのに。わざと伏せている?以前からずっと気になってます。なかなか魅力的な雰囲気で好きですね。

2010/12/16

brenda scott

これは「brenda scott」という女優さんでこの写真は「逃亡者」に出ていたときのもの。「逃亡者」のDVDは日本語訳が付いたものも出始めたので全部手に入るようになるかもしれない。これは「蝕まれた村」とかいう題名が付いていたエピソードだと記憶しているが詳細は忘れてしまった。ただ思うのは「逃亡者」だけでなく、当時のテレビドラマについてもエピソードごとのゲストの俳優さんから監督などのスタッフにいたるまでかなりのデータベースがインターネットで調べることが出来て、1960年代以降のアメリカのテレビドラマで日本で放映されたもの(多分そういったものは本国でヒットしているから)はほとんど調べることが出来る。当時なら新聞のテレビ番組表とテレビで配役を紹介するワンシーンだけでこの「brenda scott」という俳優さんの名前を知り、それ以上の情報は本人がその後大スターにでもならない限り、日本ではほぼというか全く情報は入ってこないのが通例であった。それは今や当時の記憶を頼りにあの時のゲストがどのような俳優さんでその後どんな活躍をしたのか?またそれまでどんな経歴だったのかがすぐ分かり、50年前では考えられない時代になった。ただ、同様なことを考えると日本のテレビ番組についてのデータベースはまだまだ不完全というか、全く整備されていないような気がする。

2010/12/15

rutger hauer

昔、サラリーマンをしていた頃、30歳を過ぎた頃に世代が変わったなと思った記憶がある。つまり共有の文化を持たない世代が入ってきたという感じをその頃感じた。それまではまだなんとかつながっていたわけですね。その僕にとっては新しい世代と話していて気がついたことは、自分の見ている映画はある特定のジャンル(というか自分の殻の中で気に入ったもの)しか見ていないということだった。その時、「ブレード・ランナー」を見ろと若い新入社員が言った。「絶対気に入りますよ・・・」、だまされたと思ってレンタル屋で借りてきた。実に面白かった。スターウォーズのハリソン・フォードしか知らなかった僕はこんな映画にも出ていることを知った。特に印象に残った俳優さんがこの「ルトガー・ハウアー」でした。オランダ出身の俳優さん。この後かなりフォローしてみていたが最近は映画にはあんまり出てこない。

2010/12/12

ノルウェイの森

ジョン・レノンの命日で、何故かジョンの声がよく聞こえるなあと思ったら、この「ノルウェイの森」が映画化されて、これもジョン・レノンですわ。本の初めの方に出てくるんですよね。そこだけ。そこだけで「ノルウェイの森」という題名になっている。僕は20年位前に単行本で出たときに買って、途中で止めた。ほとんど村上春樹は面白くって読んでいるが、これは面白くなかった。面白くないと思ったのがものすごく売れた。不思議なものである。時代は変わっていくのですね。
デビュー作の「風の歌を聴け」を映画化して後味の悪い思いをした云々のエッセイを読んでいたので、その後の映画化はないだろうと思っていたのに意外であった。それと恋愛小説は苦手である。

2010/12/10

青葉しげれる桜井の・・

最近のJRは民営化に伴って、併走している私鉄と駅を数を競うようになってきた感じがする。特に京都と大阪の間はJRと阪急では駅の数が大きく違っていて、過去は私鉄沿線の方が新興住宅がどんどん出来てきたように記憶している。その特にの中でも特にJRの山崎と高槻の間は乗っていてもかなり長く感じる区間で、阪急では上牧と水無瀬という駅が2つある。それでいよいよJRも島本という駅をついに作った(もう大分経ってますが)。この島本という駅でありますが、降りたところに桜井駅と呼ばれる遺跡があって公園になってます。その公園の中にはアップした写真があって、誰かといえば楠木正成と正行の親子です。座台に「滅私奉公」・・・かなり前近代的な標語。もともとこの楠木正成という人は戦時中は国のための見本のように担ぎ出された人でかなり脚色されている御仁です。日本史の中でも建武の中興のあたりはあんまり面白くなかったですから(主義主張がスッキリしていなくて分かりにくかった記憶が残っている)。ということでそれほど個人的には評価もしていないし、興味もない人物なんですが、どういうわけかこの2人の別れを歌った「青葉しげれる桜井の・・・」という歌を今も覚えている。恐ろしい気がする。いい歌だとも思っている(ややこしい)。桜井というのは島本で奈良の桜井ではありませぬ。念のため。

2010/12/09

john lennon

今日はこの写真(というかレコードジャケット)を自分のブログでアップした人が多いと思う。亡くなって30年たつ。あの時、僕は名古屋に出張していた。常滑というところに行っていて名鉄で名古屋まで帰っている途中であった。途中から乗ってきたおっさんの読んでいる新聞の見出しに「ジョン・レノン・・・」の記事で一瞬何を言ってるんだ・・と思った記憶が今でも残っている。
このレコードは云わずと知れた「imagine」で小野洋子と一緒になった最大の成果といわれている。僕は正直なところ小野洋子とは出会って欲しくなかった部類の人間であります。いいレコードだと思うけれどもね。

2010/12/04

MRI

先日からの胃痛からの騒ぎでとうとうMRIのお世話にまでなることに。結果はかかりつけのお医者さんからというこでそれまでは不安はあるものの体調はすこぶる回復してきているので全般的な不安は少なくなってきている。
MRIという機械を考え出した人が誰なのかは知らないが、まあレントゲンと同じくらい(いやそれ以上)の功績のような気がする。この写真の筒が磁場でこの中に生身の体が入って、体に何がしかの反応させてそれをあるロジックで絵にしていくという、まあ素人なりに考えた私の理論であります。この写真ではベッドの先に頭を覆う鉄仮面みたいに見えるところがありますが、脳とかを調べるときはあの中に頭を入れる。今回はお腹だったので鉄仮面はなし。20分位ということだったけれどもっと早く済んだような気がした。意外と楽だったように思う。この写真のマシンはゼネラル・エレクトリック社みたいですが、今日の病院のマシンはフィリップス社でした。日本では東芝とか日立が作っていると思いますが、こういう分野って日本の独壇場ではないですね。日本の技術のレベルってどれくらいなのかなって最近思うことが多い。医療の超最先端になるとアメリカとかドイツとか強そうやし、民生用家電はアジアに追いつかれてしまったし。どうなんやろなあ。

2010/11/30

rosemary cloony

これがジョージ・クルーニーの伯母さん(このおばさんの方だと思う)のrosemary cloonyです。CDもなかなか良いです。

2010/11/29

george clooney

意外とこの「george clooneyと」いう俳優さんが好きである。もともとは「ピース・メーカー」という映画を見て気に入って、オーシャンズのシリーズはそれほど好きでもない。先日「フィクサー」という邦題の映画をDVDで借りてきた。「フィクサー」という邦題は陳腐でセンスがなく損をしていると思う。映画は意外とといえば失礼なくらい面白く、「隠れた名作」だと思ったけれど、アメリカではアカデミー賞にノミネートされたくらいの作品で、知らぬは俺だけということでした。昔々「江利チエミ」という歌手がいて「カモナマイハウス・・」とかいうあちらの歌で大ヒットしたことがある。その元の歌を歌っていたのが「ローズマリー・クルーニー」といい、伯母さんにあたるとか。似ています。

2010/11/20

雑感

今日はアップした写真は全く関係ありません。この間から胃が痛くって病院に行ったら胆道炎かもとか胆石とかいわれてCTを撮ったら石は見つからず。結局、飲みすぎかなという話になってしまった(きつく言うと急性アルコール肝炎とかになるらしい)。そういえば痛くなる2日ほどかなりの暴飲暴食であった。それで医者の勧めもあって(というか半ば強制的に)酒を止めた。今日で10日以上である。そうすると体重が減ってきた(僕はビール党だったので)。さらに頭がクリアになってきた(どんだけ飲んでたんや??)。記憶も良くなってきている。というわけでいいことが続いている。もう大分飲んできたからいい加減に終わりにしようかなと思っている。写真はデビッド・ボウイとミック・ロンソンです。ギラギラの頃の写真です。

2010/11/11

scream

この間、胃が急に痛んでかかりつけの病院に駆け込んだら、胆石の疑いがあるといわれた。それで大きな病院を紹介された。ただ、石がCTでも見つからない。多分10中8,9流れたんだろうとおっしゃる。でも検査入院をしろとおっしゃる。1週間。10分の1の確率を抑えねば気がすまないみたい。勢いに負けて「ハイ」といってしまいそうであるが、なにか釈然としないものが残っている。あんまりインフォームドなんちゃらかんちゃらというのは実際には大病にしか存在しないようである。受けるのが当然という感じで・・正直断ろうかなと思っているが悩みますなあ。

2010/11/01

dave clark five

ビートルズのライバルというのは当時はたくさん出てきて、多分今ではローリング・ストーンズが最高のライバルだったと思われているのだろう。ただ、ストーンズはどちらかといえば後発で、まず一番初めにビートルズの好敵手だといわれたのはこの「dave clark five」というグループ。テナーサックスが加わったちょっとギターだけのバンドとはちょっと雰囲気が違っていた。1964年から65年にかけてはかなりのヒット曲をとばし映画も出来た。その主題歌もNO.1になった。
ここにアップしたのは、ビートルズの「抱きしめたい」をイギリスのチャートの1位から引きずり落としたことで非常に有名な「グラッド・オール・オーバー」です。僕はこのシングルが欲しかったけれど、お小遣いも少なくビートルズで手がいっぱいで、毎日学校の帰りのレコード屋でみていた。なかなか売れず、結局数ヵ月後に僕が買ってしまった。330円でした。

2010/10/27

キハ181

鉄道は好きだけどオタクの部類に入るまでにはいっていない(と思う)。仕事でいろんなところに行くので(飛行機にはほとんど乗らない地域が多いので)自然とJRに詳しくなってしまう。3年位前まで和田山というところに仕事で毎週行っていたことがある。普通は京都か新大阪から山陰線か福知山線でいくのだが、和田山の前日に岡山に仕事で行く機会があったので、岡山から姫路まで戻ってそこからこの「はまかぜ」という特急に乗った。満員だったような記憶が残っている。夜だったので残念ながら景色は見れなかった。播但線ですね。この「はまかぜ」の車両が「キハ181」といって、仕事納めとなることが決まった。もう古いですからね。「はまかぜ」とは違うけれどずいぶん昔から乗った思い出がある。クリーム色とエンジの色の方ですけど。ご苦労さんでした。

2010/10/26

sony walkman

ソニーのウォークマンの生産がついに終わりました。31年間の寿命でありました。写真は初代の写真だということで「walkman」のロゴはありません。今はappleの「ipod」の時代になってしまいましたが、イヤフォンで音楽を歩きながら、電車の中で聞くという生活スタイルを築いたのはこのソニーのウォークマンであったことには間違いないです。ソニーはその昔のトランジスタラジオとこのウォークマンで生活をガラッと変えてしまった実績があります。最近はちょっと寂しい感じがします。頑張ってほしいですね。
ウォークマンは当時3~4万円くらいしたと思う。当時の若者の収入ではちょっと高嶺の花だったように記憶している。サラリーマンをしていたときに、社長賞という賞をもらって副賞に金一封をもらってそれで買った思い出がある。僕のは2代目か3代目ので「walkman」のロゴが入っている。何回もオーバーホールに出して大事に使っていたが、もう既にリタイアしてしまってる。ただ大事においてある。なかなか動かなくっても捨てる気にならない。

2010/10/25

U2(2)

昨日に続きU2の話、もともとビートルズみたいなグループ形成過程の話が好きである。今の日本みたいな〇〇事務所がグループを作るっていうのは全然面白くない。中学くらいからのツッパリっぽい集団がものすごく才能があって世界中をぎゃふんと言わせるっていうのが僕のロックスターとしての美学であります。そういう意味でこのU2もアイルランドの自然的発生の集団である。アイルランドのスレイン城の凱旋ライブの人と熱狂振りは凄い。男がわんさかと集まるスターが日本にはおりませんなあ。

2010/10/23

U2

U2というバンドはいまや大御所的な扱いであるが、僕にとってはまだ新しいバンドの範疇に入っている。1964年からビートルズを聞き出して、プレスリーの出現までかなりまめにトレースした。だから1956年くらいからのヒット曲にも詳しい。で、ではどのあたりくらいまでついて来られたかという疑問を自民自答してみたら、本気で感激して聞いていたのはこのU2あたりまでかなと最近思うことが多い。その後の新しいバンドのCDも買っているがもうひとつ”ぴん”と来ないものが多く。最近は全く興味がなくなってしまった。多分2000年以降のヒットには興味がないのだと思う。
このU2の「ヨシュア・トゥリー」は1987年のリリース。翌年「ラトル&ハム」が出て、1989年には来日、大阪城ホールに見に行った。「ラトル&ハム」のDVDは今見ても素晴らしい。

2010/10/12

ティナ・ラッツ

昔々の話であります。僕は今ほとんど流行というジャンルには全く興味がありませんが。昔々僕の母はどういうわけか裁縫の内職をしていた関係でファッションの雑誌が一杯家にありました。装苑とかミセスとかという雑誌がありました。その中で表紙で目についたのがこの「ティナ・ラッツ」というモデルさん。早くして亡くなられたようですが、残念でなりません。写真だけで存在をアピールできるというお方が少なくなってます。

2010/10/05

powerhouse

グループサウンズが終焉を迎えて、新しい時代が来た(のかどうかは今もってはっきりしませんね(日本の場合は特に))。とにかく新しいバンドが出てきたのは確かであります。和製ツエッペリンみたいなメジャーなバンドは出なかったけれど、もぞもぞと新しい動きはありました。そのはしりみたいなのがこの「パワーハウス」というバンド。全部コピーですがなかなか味があります。リードギターは陳信輝、ベースは柳ジョージです。

2010/10/04

speed,grue & shinki

柳ジョージのデビュー当時の散策をしていたら、いろんな昔を思い出してこんなグループを思い出した。「スピード・グルー&シンキ」であります。シンキは当時横浜では天才ギタリストといわれていた陳信輝でしょうね。あとのスピード、グルーは誰というか?人のことなのかな??陳信輝はモンスター・アルバムのフードブレインを出した後このグループを結成なんでしょうね?(このあたりの変遷はそれほど詳しくないので悪しからず) ジャケットが秀逸。このほかトラのジャケットのレコードも出ていたと思います。僕は毎日放送の放出品でゲットして持ってます。

2010/10/01

sam cooke(2)

これがそのペギー・マーチのシングルであります。なんでカップリングがサム・クックなんでしょうねえ???
僕はこのシングルを1964年の秋に買ったのだと思う。その年の12月にサム・クックは亡くなっている。色々な説があって真実は分からない。

2010/09/30

sam cooke

柳ジョージを聞いていたら、ベースはサム・クックかなと思い出してきた。サム・クックは若くしてピストルで撃たれて死んじゃったけれど残された曲は今でも錆びついていない。当時にしては意外にも自作自演が多い。僕が初めて聞いたのは偶然の産物で、ペギー・マーチの「アイル・フォロー・ヒム」のシングルを買ったら驚いたことにB面はペギー・マーチでなく黒人のおっさんで憤慨した記憶がある。その黒人のおっさんがこのサム・クックで意外にも曲が良く、そこから聞き始めることになった。しかしこのシングルのカップリングを考え出した人物は不思議である。共通点がないもんね。

2010/09/28

yanagi george

今日は夕方から雨が降ってきてそれもかなりきつい雨だったのでタクシーに乗った。普通タクシーはラジオをかけている運転手さんが多いと思うけれど。今日の運転手さんはCDをかけていた。しかも「柳ジョージ」のベスト盤。久しぶりに「ステラ」を聞いた。「柳ジョージとは渋いですなあ・・・」「おわかりですか・」「わからいでか、昔 ライブもみてまっせ」・・・こうなればもう時間の経つのは早い。あっという間に京都駅に着きました。運転手さんも乗り乗りであった。
声も渋いし、ギターの音色もいいし、基のベースがR&Bやし・・90年くらいまでのは、ほとんどレコードで持っているのでCD集めようかなと思って調べたらなんと60枚以上もありました。ベスト盤でもライブが入っていたりテイクが違っていたり、なかなか通には憎い選曲となっている感じがする。集めるべきかやめるべきか・・・悩みは尽きない。

2010/09/26

last kiss

ビートルズと付き合っていたら、アメリカのヒットチャートに詳しくなってしまう。特に1964-65のキャッシュボックスとビルボードのチャートは覚えてしまったくらいである。この2大音楽雑誌は微妙に順位が違うことがあって、この「ラストキッス」という曲はキャッシュボックスでは1位になったけれどビルボードで1位になったかは僕の記憶にはない。
それはともかくこの「ラストキッス」という曲は1964年の暮れに大ヒットしたけれど(アメリカで)、日本ではもうひとつでした。僕が大好きでしたが。ある意味では一発屋のジャンルですかね。

2010/09/25

paul anka

であります 左がポール・アンカで右がエルビス・プレスリーであります。残念ながら真ん中の女性を知りません。どなたか教えてくださいませ。この間からずっと60年をまたがる頃にスターだった歌手を見てきましたが、ニール・セダカ、コニー・フランシスそしてポール・アンカにプレスリー、どなたもアメリカって言う感じがしませんよね。不思議な気がします。何ででしょう??

2010/09/07

connie francis

ニール・セダカに続きコニー・フランシスである。似ている感じがするのはニールがコニーに曲を提供していることにも起因するのかもしれない。それと二人ともいかにもアメリカ人という感じではなかったのも不思議な気がしている。ニール・セダカはトルコ系でコニー・フランシスはイタリア系です。ヤンキーの兄ちゃん姉ちゃん的な感じがしない。プレスリーもそうですよね。アメリカ的といえばパット・ブーンか?僕の勝手な思い込みかもしれませんが。当時ミッキーマウスクラブのアネットもイタリア系だよなあ。

2010/09/06

neil sedaka

「181 good time oldies」を聞いていたら、一発でオールディーズだと思ってしまうイメージの声が「コニー・フランシス」「ニール・セダカ」の2人である。このジャケットにあるニール・セダカの「カレンダー・ガール」「恋の片道切符」なんかはもう世紀のヒット曲的イメージが僕にはある。アメリカの文化を一人で背負って海を渡って持って来てくれた感じがしていた。なんともいえないアメリカの明るさに、変な話であるが当時小学生の僕は「戦争に負けるはずや・・」と思った。なんでそんなことを思ったのかは分からないけど、抑制されていないものは強いと思ったのだと思う。ちょっと変な文になってしまいました。

shangri-las

最近はCDをかけても曲のイメージが先に出るから、メディア・プレイヤーの「181 good time oldies」を聞いていることが多い。ほとんどの曲は持っているのがかかるが時々「これ何」っていうのがかかるから楽しい。よくかかるなあと思っているのがこのシャングリラスの「リーダー・オブ・ザ・パック」。1964年暮れのヒット曲。シングルジャケット見て格好いいと思ったものである。まあ単純な歌ですが。当時はこんなのも流行ったということです。

2010/09/05

etta place (2)

前回、etta place の写真が1枚しか残っていないと書いてしまったが、佐野草介さんという方の実にすばらしい西部のアウトロー達のHPを見ていたら、こんな写真があった。例の3人組の写真であります。場所はなんとアルゼンチンのchorilaという場所での写真。僕の感覚ではパタゴニアである。彼らは追っ手を逃れてアルゼンチンで牧場をやっていた。このまま平穏に暮らせていたらと思いますがなかなかそうもいかなかったみたいで。

2010/09/04

etta place

これが、ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスの実物版、つまりサンダンス・キッドとエッタ・プレイスである。エッタ・プレイスの写真はこれ1枚のみということでしかも消息不明。南米に高飛びする前に撮った写真らしい。エッタ・プレイスがその後どうなったのかという疑問に関するHPはあちらでは結構あって、辞書引き引き読んでみようと思っている。

2010/09/03

明日に向かって撃て

これは知る人ぞ知る「明日に向かって撃て」のエンディングシーンである。僕はこれを多分(もう物忘れがひどくなってきているので多分である)天王寺の駅の構内にあったものすっごく小さな映画館でロードショウから数ヶ月経って見た(のだと思う)(今はもうありません。スーパーみたいなお店になっている)。
初めのセピア色の実際に撮られたような記録映画からだんだんとカラーに変わっていく(大分かかる)のが「なんかすごいなあ」と単純に思った(記憶がある)。僕はこの映画館で「小さな巨人」も見たと思う。当時は友達と見に行くというような雰囲気ではなく、一人で哲学者っぽく見に行くのが流行っていたように思う。この映画館は安かったので上映されるのが変われば行ったけれど、見た映画なかではこの映画がダントツであった。

2010/09/01

lee harvey oswald

浦澤直樹の漫画が好きなので賛否両論のなか相変わらず読み続けている。今は「ビリー・バット」という連載物。雑誌は買わず単行本になったら買い求めている。最近は風呂敷を広げるのは天才だけどたためないという評価が圧倒的である。原作者もたためない性格のようである。で、第4巻になんとオズワルドが出てきた。こんなのまで出すか・・という感じである。どう料理するのかお手並み拝見というか(やっぱりあかんかったか・・・となるのか)。あの時1963年11月23日(だったかな)の衛星中継の実験を朝早く起きてNHKを見た人が何人くらい生きているのかなと思う。僕は中学1年だった。週刊朝日の特集号を今でも置いてある。このケネディ暗殺犯のオズワルドは一応今のところこの人が犯人ということになっていて真相は2039年に明かされるということになっている。この辺がアメリカの凄いとこかなと思う。このロジックは凄い。オズワルドは犯人と違うの???
下山事件とかも何年かしたら真相が明かされるというようなことは日本ではおきないですよね。この違いは何のせいなのかなって時々思うことがある。

2010/08/25

近藤富蔵 2

以前から近藤重蔵とその息子の富蔵の生涯が分かる本を探していたのだがなかなか僕の知りたいことについて書かれてある本に出合えなかった。ところがこのようなそのまんまの表題の本が既に20年ほど前に出ていることがつい最近知った。古本でしか手に入らないからネットで調べたら44円から1000円までなんとまあこうも価格に開きが出るとは驚きである。無難なとこで真ん中ぐらいのものを購入して読み始める。文章が読みやすくほぼ1日で読了。作者の久保田暁一さんは最近同じ題材で新しいものを出しているのでそれ以降に新しく仕入れられた情報が織り込まれているのかも知れないなあ。それも読んでみようかと思っている。

2010/08/23

julie samuel

前回シラ・ブラックに似ているけれど違うみたいって書いたら、調べていくうちにこんなのを見つけた。左がシラ・ブラック、右が間違えた「julie samuel」、瓜二つということでもないけど同じ髪型にされたら似てるかも。多分「マージー河のフェリーボート」の撮影時に撮られたショットでしょう。真ん中がジェリー・マースデンで今でもリバプールでは有名人です。なんといってもサッカーのリバプールのテーマソング(応援歌)?(阪神の六甲おろしみたいなもの)は彼である。

2010/08/22

マージー河のフェリーボート

この写真は「マージー河のフェリーボート」という映画のポスター(というより宣伝の写真)である。この映画を見た人は多分1965年に封切されたときに見ているはず(僕は見ていない)。ただ、DVDは出ていない。どうも本国(イギリス)でも出ていないようである。ジェリーとペースメーカーズというバンドが主役の他愛もない映画なんですが、ビートルズのヤアヤアヤアの後にブライアン・エプスタインが作った映画でジョージ・マーティンも映っているからマニアなら持っておきたいDVDである。それに先日から書いているゴールド・フィンガーのマーガレット・ノーランが美術学校のスケッチのモデルとして出ていて後姿であるがガウンを脱ぎ捨てるといったシーンもあって(ユーチューブで見れます)楽しそうである。上の写真はジェリー・マースデンがモデルを見ながら絵を描いているところ。相手の女性はシラ・ブラックかなと思っていたが似ているけれど違うようです。

2010/08/20

目黒新富士

これが昨日書いた「目黒新富士」の浮世絵であります。広重の作品らしい。遠くにほんまもんの富士山と手前に富士山のような格好をした山(丘?)が描かれてある。今のわれわれにはちょっと理解できないものが流行ったんですなあ。さらにネットサーフィンしてたらこのような富士山もどきが東京にはかなりの数あったそうで、ちょっと関東に住んでいないと馴染みがないのかもしれない。
昨日の続き、近藤重蔵はこの新富士を庭に作っていたわけであるが、大阪に転勤の時に隣の任侠あがりの男に世話を頼んだらしい。この男商売がうまかったと見えて隣の垣根を壊して、自分とこは蕎麦屋を始め、新富士を眺めながら蕎麦を食べるという趣向で大いに儲けたらしい。そこに重蔵が帰ってきた。「おまえ何を勝手なことやっとんねん」とまあこんな感じでもめだしたのではないかと推察してます。

2010/08/19

近藤富蔵

八丈島のことを調べるならまず「八丈実記」という書物から入るのが常識なんだそうである。アップしたのがその書物である。東京都所有。この書物を書いたのが八丈島に島流しをされていた「近藤富蔵」という人で、父は「近藤重蔵」という。ここまできたらなんか日本史に出来たよなと思う人が多いであろう。北海道の択捉島にロシアに取られないように標識を立てた人で、間宮林蔵とかみんな「蔵」が付くなあと思って覚えたものである。なんで息子が島流しになったのだ?というと東京の目黒の重蔵の所有する土地をめぐって隣の住人を皆殺しにしたという罪なんですが、事実は事実らしいがそのいきさつについては見方がいろいろあって面白い。この事件で親父さんの方も滋賀の高島に放逐されている。この隣人とのいざこざを調べていたら「目黒新富士」というあまり聞きなれない言葉が出てくるので、ついでにそれも調べていたら面白い事実がいっぱい出てきた。時々仕事で行く東京の恵比寿や中目黒のあたりに近藤重蔵が別宅を持っていたらしい。そこの庭に土を盛って富士山に見立てた山(丘)を作ってそれが評判になって「目黒新富士」と呼ばれたようである(どんなでかい敷地だったのか?近藤重蔵は当時は北海道開拓のおかげで出世していたようである)、今は残っていないが公園に史跡があるようです。安藤広重もこの新富士と本当の富士山を並べた絵を描いているくらいである。それと富士山信仰というのがあったことも知らなかったですね。やたら富士山もどきを作って拝んだようであります。興味のある人は調べてください。で、近藤富蔵は明治になって赦免されて本土に戻ってくるが2年間ほど本土にいて父親の墓参りとかを済ませた後は八丈島に戻って死ぬまで暮らしたそうです。数奇な人生の話が好きな僕としては興味津々の話です。八丈島では英雄のようですよ。

ariane friedrich

ちょっと暗い雰囲気が続いたので原点に戻って明るくミーハー的にいきます。最近注目株の走り高跳びのドイツの美人ジャンパー「ariane friedrich」、お気に入りだったスェーデンのベリクイストが引退してしまったんでさびしいなあと思っていたら、ちゃんと次のお気に入りが出てきてくれました。走り高跳びの空中に浮いているショットは棒高跳びの写真とはまた違う趣があって美しい。 もとの髪の毛は黒髪のようでかなり印象が違う。げに女は恐ろしい。

2010/08/18

墜落遺体

最近はお盆になると、日航機事故と終戦と甲子園の3点セットで過ぎてしまうことが多い。日航機事故は原因についてまだスカッとした気にならないし、終戦は何故戦争になってしまったのかとか、負けるに決まっている戦争を何故したのかとか、その手の本がかなりたまっているので拾い読みする。高校野球は今行われている試合を見ながら昔の思い出にふける。年いってきました。アップしたのは日航機事故の遺体確認の責任者であった「飯塚訓」さんが退官してから書かれた「墜落遺体」という本です。涙なくしては読めない想像を絶する現場の姿が書かれてあります。久しぶりに読み直して改めて大変な事故であったことを痛感しました。

2010/08/17

1979.8.16

この写真は31年前の8月16日である。箕島高校と星稜高校の死闘に決着がつく瞬間である。僕はスポーツは全くだめなグーたら人間であるが高校野球は見るのが好きである。いろいろ名勝負はあるがこの試合はベスト3に入る。あとは三沢高校と松山商業、それに横浜とPLかなあ。坂東さんの名勝負は残念ながら記憶にない。この時の星稜のピッチャーは260球くらい投げた。もう信じられない世界である。ファールフライを落とした選手、くじけず生きていてほしいです。

2010/08/15

鈴木貫太郎

昨日の調印式の写真は1945年9月2日のもので、海外では日本の降伏は調印時つまり9月2日と考える人が多いようである。ただ日本は玉音放送があった(つまり昭和天皇がポツダム宣言を受け入れるように指示したといわれた放送があった)日つまり1945年8月15日をもって降伏したと考える人が多いようである。で、この写真の人は当時の総理大臣の鈴木貫太郎である。まあこの人のおかげで日本はなんとか残ったといえるのではないかと思っている。昭和天皇に聖断(つまり戦争を終わらせる決断)を働きかけたのはこの人だといわれている。

終戦の日

今日は終戦記念日である。甲子園球場では黙祷をささげる。なんでそんなことをするのか知らない若者が多そうである。戦争が終わって65年日本は幸せなはずである。でも日常生活はどうも幸せでないような事件が多いですなあ。この写真は戦艦ミズーリの艦上で重光外務大臣が無条件降伏の調印をしている写真。どうでもいい話ですが戦艦ミズーリという戦艦はその後よく映画に登場します。僕は戦艦大和とこのミズーリが姿の美しさでは双璧だと思ってます。アメリカでもファンが多いのだと思う。

2010/08/14

1985.08.12

この写真は非常に有名な生存者が助けられるところです。この方は平穏に暮らしておられるという記事を読んだことがありますが、そのような記事も迷惑なのかもしれません(迷惑だと思います)。524人の搭乗者のうち4人が生存、つまり520人が亡くなっております。この事故についてもいろいろな諸説が展開されてまして、古くはタイタニックや近くでは9.11の貿易センタービルテロ事件などにおいても様々な陰謀説みたいなものが面白おかしく出てきますが、やはり公式な見解は不自然なように感じます。公式見解が不自然という感じは、ケネディ暗殺事件の公式報告書(名前は忘れました)が出たときも同じような反応だったように記憶しております。ケネディについては今や当時のベトナム戦争推進派の陰謀だったことが当たり前のように語られていますが、日航機事故は「そのような風説」は今のところ出てませんね。真相が果たして明かされるときが来るのでしょうか??

2010/08/12

JA8119

突然この写真、いわゆる日本航空123便の写真であります。ちょうど25年前の1985年8月12日の18時~19時の間に起こった墜落事故です。偶然この事故でなくなった(ほとんど亡くなっている。4人しか助かっていないのだから)方の子供さんと仕事を一緒にしたこともあったり、助かったお方の一人は僕の出身校の先輩がやっている看護学校に来ていたという話を聞いたり、全くの他人事とは云えない気持ちを持っている。仕事で出張がかなりありますが、北海道に行く時以外は新幹線にしてます。一時期この事故に関する本を何冊か読んだことがあります。なぜ落ちたのか?という原因究明の話は多分水掛け論だと思うのですが、遺体収容の苦労話の本は涙無しに読めなかったですね。関係者の苦労は凄まじいものがあったことがわかります。

simon & garfunkel

先日のモンタレー・ポップ・フェスティバルのところでサイモンとガーファンケルを去り行くものとして取り扱ったのですが、このあたり、かなり個人的には苦悩してまして、サイモンとガーファンケルは1970年にはこのアルバム「明日に架ける橋」を大ヒットさせております。僕も大好きですばらしいレコードだと思っておりますが・・・、やはり1967年においてすでに追い出されるべきものであったのではないかという気持ちを今もって持っております。もうデュエット・ユニットの時代でなくなったということは本人たちが良く分かっていたのではないか?じっくり歌を聞かせる時代でなくなったのではないか?ということを良く弁えていたような気がします。でも俺たちにはこれしかないという最後の逆転満塁サヨナラホームランであったような気がするのは間違いでしょうか?