2017/10/13

お風呂の話

アップしたのが相応しいかどうかは疑問ですが、尊敬?する山上先生の名?迷作の表紙から。
まあこれを読んでいた俺も俺なんで・・・恥ずかしいわ。

では、長屋話の続きです(読者がいたので)
20軒の長屋は、当初というかつぶされるまで「お風呂」が自宅になかった。
工場に備え付けられていた「お風呂」があった。
そのお風呂は長屋専用で、工場の工員さんには別の大きなお風呂があった。
男の人は工場のお風呂でも、長屋用の男用のお風呂でも自由に使えた(一日に2回入ってもOK)。女の人は長屋用の女風呂でということに。
で、僕はと言えば生まれてからかなりの間、「長屋用の女風呂」に通っていたはず。(当時のこと覚えてるかいな)
多分小学3年までいたから、ずっと女風呂やったんか定かでない。
工場のお風呂には行った記憶はある。もうめっちゃ広く、プールみたいで、早くいけば泳げていた。ただそれはお父さんやおじいちゃんがいた時の話で、いないときはお母ちゃんと一緒だったんだろうと思う。
今から考えたら、思春期に入ったお姉ちゃんもいっぱいいたわけで、お姉ちゃん方はどうしたんだろう。胸も大きくなるし、下の方も気になるし・・・今度おばあちゃんになっているその頃のお姉さんがいるから聞いてみるわ(しばかれそう)

ただ裸の付き合いっていう言葉がありますが、そういうことだったのかなって思うことが多いです。みんな素っ裸の付き合いだったわけです。
僕はおばちゃんたちに生まれた時からずっと裸の姿を見られていたわけで、そりゃあノーブラのシミーズ姿でも「元気か・・?」って聞きに来ますわな。
逆に考えたら、僕は素っ裸のおばちゃんからお姉ちゃんまでモザイクなしで(当たり前でんがな)見ていたわけで、実にもったいないことをしていることになる。残念ながら全く記憶にございません。
ほんまに古き良き時代だったように思うこの頃です。




2017/10/10

正義の味方

あんまり政治には興味がある方ではないけれどこうもめたら気になる。
誰が正義の味方なんだ??
空手チョップでばっさばっさと退治してくれないかな。誰を??
ほんまに今回の選挙は分からない。
結局、主義主張が明確なのは右の阿部さんと左の枝野さん。まあ共産党も一応はっきりしてます。
あとはよくわからん。
特に小池さんはもう全く僕の頭では理解不能。
まず東京都をちゃんとやりましょうよ。オリンピック大丈夫なんかな。

力道山にやっつけられているのは誰だろう。
昔金曜日の8時からのテレビ中継で、リングを三菱の掃除機で掃除するところを見せるのですが、あれって意味があったのかな。汗でボトボトのはず。

2017/10/09

シミーズ(あほな思い出)

前回の続き
長屋の20軒は、皆さん仲が良くって、茨木に引っ越してからも、大勢の方が何べんも遊びに来てくれた。仲が良かったのは、戦後から昭和34年までほぼ一緒に苦楽を共にしてきたからだと思う。
あの国鉄の自動車工場の宿舎(20軒の長屋)が何時からあったのか、今となっては知る由もないですが、戦後、復興の為に工場が出来、人が集まってきて宿舎が建てられ、その宿舎は、東京オリンピックで新幹線が作られるということで、なくなることに、また国鉄の路線の充実とともにバスの需要も減ってきた云々で、宿舎と共に自動車工場も解体されて、その跡地は前回述べたようにワコールの本社とあとマンションになっている。
で、その長屋の方々が遊びに来てくれるのはええのですが、まあ女の人ばかり来る。そりゃそうですわ。男は働いてるわけで、当時の主婦はほとんど仕事はしてなかった。そんで夏なんかに来ると
当時はクーラーなんかないから、扇風機やうちわで涼をとるわけやけど、そんなんで間に合わんから服を脱いでしまって、当時はシミーズという下着で家の中にいる。もうシミーズのおばちゃんがいっぱいいる。実にややこしい風景が繰り広げられる。
誤解されたら困るので付け加えますと、うちの家族はムームーみたいな薄着の服を着ていまして、もちろん下着姿ではおまへん。
お客さんは一応ちょっとよそ行きの服をお召しされて御来客いただいた感じです。だから暑い。
さらに当時、ブラジャーをしている人はまあモダンなお人で、ほとんどノーブラ、そんなおばちゃん達が小学校の高学年の僕に話しかけてくる。左右の乳首が揺れる。さらにさらに脇の毛はボウボウの時代です。
僕の勉強部屋にも勝手に入ってくる。そりゃそうですわ、僕を赤ちゃんの時から知っている人ばかりなんで遠慮が全くない。
さらに夏休みになると同年代の子供も遊びに来るわけで、その子供も女の子はシミーズ1枚で僕の周りをうろつく・・・。今から考えたら僕の当時のアルバムには近所の女の子が下着姿のまま写っている写真っていっぱいあるもんね。パンツとシミーズで外に出てた時代ですわ。
古き良き?時代の思い出です。

昭和34年

この写真は当時の大阪駅のはず。
僕の親父は昭和36年くらいにはこの駅の2階に勤務していたから。
昭和34年に京都の国鉄の自動車工場の長屋(20軒の長屋)から引っ越してきた。どこに?
大阪の北摂の茨木というところに。
住んでいた京都の長屋は今ワコールの本社になっている。
大阪に引っ越すというので、小学生の頭の中では都会に引っ越すと思っていたら、えらい田舎だった。新築の家を建てたものの、周りは田んぼだらけで、カエルやザリガニが入ってくるし、目の前の田んぼでは田植えの時には牛がいるし、正直、京都の方が良かったと思った。
ただ、親にしたら、当時の京都の長屋は、6畳、4畳半、3畳の部屋に6人が住んでいて、どういう訳か母親の方の田舎(鹿児島)から宿代わりに客がよく来た。特に受験の頃には親戚縁者の伝手で学生が受験に来た。毎年3月くらいになると、見知らぬ受験生が来た記憶がある。到底泊まる場所が狭すぎてないから、その辺りは当時の人情時代で、隣のおばちゃん(他人でっせ)の家に泊めてもらったりしていたらしい。
茨木に引っ越した時に、おじいちゃんの退職金があったということで、生活に大きな変化が起こった。まず机を買ってもらった。勉強部屋が与えられた。電球からすべて蛍光灯になったような気もする。
また、電気冷蔵庫を買った(それまでは氷を上に入れる冷蔵庫だった。冷蔵庫と言えるかどうか、今となっては疑問ですが)。ただ当時の電気冷蔵庫はアイスクリームは保存できなかった。フリーザーの機能が付くのはもっと先の話である。
縁側に椅子とテーブルを買った。電気の炊飯器も買った。
もう、宝くじが当たったみたいな生活の変化だった。
今から考えたら、その20軒の長屋住まいの面々は同じように定年退職で退職金を手にして、家を建て文化的な生活を営むようになった。日本が高度成長で、健康で文化的な生活を実感できた古き良き時代の始まりの頃の話です。

2017/10/08

JR茨木の八海さん

 
この上の写真でわかるか不安ですが、車が走っている向かい側の商店街の一番手前、白のシャッターが下りているところ。下の写真も参考までに。
そこが昔「中華料理 八海」さんがあったところで僕の贔屓にしていたお店です。
並んでいる商店街も10年以上続いているところは珍しく、なかなか商売も難しいように思います。
「八海」さんというのは元々茨木の阪急の方の「大映」(懐かしい)の映画館の前で中華料理店をやっていて、そこから春日3丁目に引っ越して来られてます。その時は、昔からの常連さんや、お持ち帰りのお客で結構な賑わいでした。
その3丁目のお店が立ち退きで(建て替えのため)、今の1丁目に引っ越してきたという話です。
非常に物静かなマスターでほとんど無駄口をきかない人でしたが、時々「今日は遅いね」とか言ってくるので、この人ちゃんと人を見てるんやと思ったことがあります。
で、僕は年に1~2回くらい実家に物を取りに来た時に立ち寄っていたのですが、昨年寄ったときは「臨時休業」で、昨日は看板もなくなっていたので不安に感じて、その「八海」さんをよく知っている人に聞いたところ、今年の初めに亡くなったということでした。まだ70越えたぐらいで、今なら早いですな。
ネットの評価はあんまりたいしたことがないのですが、多分お若いお方の味覚の書き込みなんで、中年の僕の評価は絶大で「餃子」「唐揚げ(手羽先)」「肉炒め」は絶品でした。
またラーメンも実にシンプルで安く、ある意味これで十分やん。と思わせる主張感が感じられました。定食とかはまったくなく。客に迎合しない孤高の中華屋さんでした。残念です。
合掌